« Lumix G Vario 7-14mm f4 ASPH | メイン | 写真展その2.5 »

CONTAX Macro Planar 60mm f2.8(C) MM-J

 私とZeissとの付き合いを決定づけたレンズが、Distagon35/1.4とこの60mmのMacro-Planarです。

 60mmで撮影された写真を初めて目にしたのは、プロカメラマンへの淡い憧れを抱き始めた中学生の頃でした。当時は馴染みのないその焦点距離と、愛用していたNikon製のレンズとのあまりにかけ離れた販売価格、そしてレンズ毎に与えられていた奇妙な呼び名に対して、単純に「疑念」を覚えた事を記憶しています。描写特性などというものは理解どころか興味もなく、ただその摩訶不思議なレンズによって撮影された一枚の写真とその疑念とが記憶の片隅に残っただけでした。

 写真を学ぶ大学に入り、多種多様な写真と触れ合う機会に恵まれる中での出来事です。授業中プロジェクターによって投影されたクラスメイトの写真を見たある日、あの過去に見たMacro-Planarの映像が、突如記憶の淵から呼び起されました。聞けばそのクラスメイトのカメラは「CONTAX」だと言うのです。どうやら過去にかけられたZeissの魔法が、長い時間をかけて私を完全に虜にしていたようなのです。以降、機材の大半がデジタルで占められる今となっても、新しいレンズを評価する際は、必ずこのレンズの描写を判断の基準とする癖が抜けないでいるのです。

 開放から、いかなる撮影距離でも抜群の結像性能を持ち、かつ他製品とは一線を画くと言ってもよいほどに美しいボケを伴います。絞り込んでも変に堅くならない優れた描特性は、f値を考えなければ常用標準レンズといっても過言ではないでしょう。実際、開放付近では少々クセが残る50mmのプラナーに代わり、私のシステムでの標準レンズを長い間努めていました。また、60mmという焦点距離のため適度に緩和されるパースペクティブは、ポートレートレンズとしても優れた一面を発揮します。

 外観の高級感は一級品ですが、非常に大柄で、ピントリングの回転角も大きくなるオリジナルのMacro-Planar。等倍撮影にさえ拘らなければ、小型軽量なCタイプで十二分にMacro-Planarの魅力を感じることが出来るでしょう。

 

 

Img0005

機材の主流がデジタルとなった今では、仕上がりのイメージはほぼ現場で掴むことができます。慣れてしまったこの「当たり前」がフイルム時代は「夢」の一つでした。そんな中、本レンズは現像後に「期待外れ」だった事が非常に少ないレンズでした。むしろ「期待以上」に驚かされることも多かったと記憶します。

 


Img0019

前後のボケ味は、溶けたり、滲んだりする感じのないしっかりとしたボケ像を作ります。Cタイプは最大撮影倍率が1/2となりますが、文献やスライド複写をする訳ではありませんので、自分にはピッタリのレンズでした。

 

Img0041

麦秋の頃、夕立にも似た突然の降雨が止んだ麦畑で一枚。その場の湿度を伝えるかの様な描写です。

 

Img0004

まるでテストチャートみたいな被写体。ボケ像は少し固めな印象を受けますが、前後のボケ方に差が少ないので立体感・遠近感を自然に描写してくれます。周辺まで画質が均一なのも「マクロ」を冠する本レンズの美点です。

 

Img0026

解像度は高い筈ですが、描写があまり硬くならないのでポートレートでも重宝しました。適度な遠近感の圧縮があり、もちろん近接撮影能力もあるので高い汎用性をもった「標準」として活躍してくれました。

 

Img0027

実物は人の小指ほどの大きさしかないシダ類の若葉。マクロレンズは普通のレンズでは出会えない被写体との邂逅をもたらしてくれます。重量級レンズの多いコンタックスレンズ中で常時携行可能となる軽量な点はCタイプの特権となります。

 

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://app.kazelog.jp/t/trackback/457783/25304541

CONTAX Macro Planar 60mm f2.8(C) MM-Jを参照しているブログ:

コメント

コメントを投稿

プロフィール

フォトアルバム

世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

PR



  • デル株式会社



    デル株式会社

    ウイルスバスター公式トレンドマイクロ・オンラインショップ

    EIZOロゴ