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Leica APO-Summicron-M 50mm f/2 ASPH

 遠近感や画角的に大きな癖がないという特徴を持つ35mm判での「50mm」前後の画角を持ったレンズが「標準レンズ」と呼ばれるのには、「標準」という言葉に「平均的な」といった意味合いも含まれているからなのでしょう。近年では単焦点レンズよりもズームレンズがより「平均的」でありますから、50mmを挟み広角側・望遠側にそれぞれ焦点域を広げたズームレンズがカメラとセットで販売される「標準レンズ」として定着しています。無論、販売戦略的にその価格も極めて「標準的」であることが「標準レンズ」に課された命題ともなっています。

 さて、デジタル化を果たして久しい、レンズ交換式距離計連動カメラであるライカM型へ話を移しましょう。その構造上、レンズラインナップにズームレンズを持た(て)ない距離計連動カメラであるM型ライカは、その前身であるバルナック型、さらにはレンズ交換もできない初期のA型ライカの時代から長きにわたり焦点距離「50mm」の単焦点レンズが「標準レンズ」としてその座に君臨しています。2022年現在なんと6種類もの50mmレンズが現行品として用意されている点からも、ライカにおける「標準」レンズの「特殊性」が伺える訳ですが、その「特殊な標準レンズ」の最たる一本が本レンズAPO-Summicronという事になるでしょう。Summicronの50mmといえば、1954年のライカM3発売から現在に至るまで、M型ライカの正に「標準」として不動の地位を獲得していますが、現行Summicronの基本設計は1979年とのこと。フイルムカメラであるライカM6の時代に、フードを引き出し式にした現在のデザインとなってからは基本的には不変を貫いているのですから、今風に言えば立派な「オールドレンズ」という事にもなるのでしょう。

 そんな歴史あるSummicron、その最新モデルが本レンズAPO-Summicron-M 50mm f/2 ASPHとなる訳です。その名に冠するAPOは、言わずと知れたアポクロマートレンズの採用であり、非球面レンズやフローティングといった画質向上へのテクノロジーも惜しみなく取り入れ、控えめなf2という解放値の恩恵もあって「性能値」はどの絞りであっても公称MTF値がほぼ上部に張り付いたようなグラフを形成します。曰く「現代の高画素なデジタルカメラの性能をフルに引き出す目的で初めて設計・製造されたレンズ」との事。ライカ基準で考えれば「標準」的な価格となるであろう30万円程(これだって、庶民からすればちょっとアレですが)の旧来Summicronの価格の約3倍(より明るい解放f値のSummiluxと比べても約2倍!!)を上納金として求めてくる超ドSな価格設定を思えば、その描写には興味が湧かないはずがありません。

 先日、とても幸いなことにM10-Pとともに入荷した個体をほんの僅かな時間だけ借用し、その一端を垣間見る事が出来ましたので、趣を変え、写真毎に少しずつコメントをさせていただく形式で紹介させていただきます。ちなみに私的な画質への解釈が入りこまぬ様、画像はM10-Pのデフォルト設定で書き出したJPEGへ、透かしの追加とリサイズのみのレタッチ(WBはデイライト)になっています。無論個体差等の影響も存在する前提ではありますが、ライカの考える現代の「標準」画質について、皆さんはどうお感じになるのでしょうか、機会があったら是非伺ってみたいものです。

 

 

L1000034  レンジファインダー機で撮影するなんて、何年振りなのでしょうか。M10-Pは2022年時点で生産完了品とは言え、それなりに新しいデジタルカメラですので「ライブビュー撮影」だってもちろん可能です。でもライカを持ってライブビューってちょっと無粋なイメージが漂いましたんで、素直にレンジファインダーのみで撮影開始です。一眼レフやライブビューなどを使って撮影する際は、水平線や垂直線、画面の端々がどこまで写り込むのかを結構気にしておりますが、レンジファインダーでは無意味とまでは言いませんが、アテにならない部分もありますから、ある程度「適当」にフレーミング。結果、かえって画面外への想像力を働かせるような画面構成に一役買ったりするのが面白いところです。被写体はかなり色の濃いアスファルトでしたので、ややマイナスに補正。f値は5.6。さすがに最新の設計と言うべきでしょう、画面全体が非常にスッキリとした現代的な描写です。被写界深度内はアスファルトの粒一つ一つ、劣化した塗装のひび割れなど、画面の隅まで見事に解像。必要以上に拡大していっても、ハイライトエッジに妙な色づきが表れる事もなく、「APO」の効果も実感できます。2000万画素クラスではまだまだ計り切れない実力が眠っている事は間違いありません。

 

L1000039 前項、ライブビューについてちょっとお話ししましたが、撮影直後に結果をモニターで確認するというデジタルならではの「お約束」も、なんだか禁忌を犯しているようで今回の撮影では封印しました。これまで懐疑的だった背面にモニターを持たないM型デジタルの存在理由はこれなのか・・・と妙に腑に落ちた感覚がしたのですが、「便利」を何の疑問も持たずに享受してしまっていた自分にちょっと反省しつつ、自室に戻ってからモニターで初めて画像を確認して「コレ」です。ん?エクタクロームE100VSのスキャンデータなんてフォルダーに入ってたか?そう思うくらいにAPO-Summicronの解放描写はデジタル離れした物でした。最新のレンズを通しデジタルカメラから出てきた映像に、まるでフイルムライカで撮影された写真を見せられているかのような感覚。新しいとか、古いとか、アナログだとかデジタルだとか、ライカが持つ「画像」の基準には、ひょっとしてそんな判断要素は存在しないのでは?何とも言えない感想を抱いた一枚となりました。

 「硬め」という一言では片づけられない独特の存在感を放つボケ像が、解放でも揺るがない合焦面のピントのキメの細かさを引き立てます。僅かに感じる周辺光量落ちも画面中央への視点誘導に効果的に働いてくれました。50mmf2の被写界深度が思っていたよりも随分浅く感じたのは、合焦部の解像度が異様なまでに高いからなのでしょうか。はたまた独特のボケ像の影響なのでしょうか。謎は深まります。

 ピントを合わせたのは画面中央、反射鏡のヒサシの角。ピント面と被写界深度(ピントが合って見える範囲)の違いを感じさせる一枚。おそらく合焦面の先鋭度が高すぎるが故に、それ以外の部分がなんとなくアウトフォーカスに見えてしまうのかも。開放1.2クラスの中望遠でもないのに、被写界深度の存在をこれほど頼りなく感じるレンズって、いったい何者なのでしょう。

L1000045 こういった平面の被写体はチョットしたテストチャート代わりになります。絞り解放ですが、隅々まで高い解像度を発揮し、ブロック塀のざらっとした手触りや鎖の冷たい感触が伝わって来るようです。害獣除けのネットの細かな編み目も妥協することなく妙な色づきもありませんし、道路を挟んだ反対側の建物との間の「空気」もちゃんと「被写体」になっていますよね。それにしても、同じ解放絞りで撮影した平面と立体を比べると、違うレンズで撮ったかの様な二面性を持っているような気もしてきます。一本で二本の働き。それでも価格は10本分以上ですが。。。。。。

 

L1000031

 普段でしたら、ライブビューファインダー越しの映像を頼りにリアルタムで補正をかけて撮影するスタイルが定着していますので、こんな風に露出を外すカットを撮影することは殆どありませんし、多少ミスをしたとしてもその場で確認からリカバリーまで出来てしまうのですが、測光範囲や個体差、またその癖を理解していないカメラで、映像未確認のま撮影を続行しましたので、ちょっと補正をかけすぎてしまっていた様です。本来ならば没カットということになりますが、なんだかネガフイルムやインスタント機で撮影したような郷愁漂う風合いに仕上がったので、恥を忍んで紹介いたしました。画面が傾いているのもご愛敬で。

 デジタルカメラの時代になってから、「テレセントリック性に配慮し設計したレンズ」などと言う言葉を目にするようになりました。簡単に言えば、現代ではセンサーに対しなるべくその周辺まで入射光を直交させる事で、周辺減光や色収差などの悪影響を抑えた特性をもった設計をする事がデジタルカメラ用のレンズには求められています。しかしながら、小型カメラの黎明期から存在しているライカのレンズには、到底「テレセントリック性」などには配慮されていませんし、驚くことに、現代のレンズでもとりわけ配慮をしている訳ではないと語られています。むしろ過去の財産でもあるオールドライカレンズも、デジタルカメラでもその特性をしっかりと味わえるよう、センサーや画像エンジンなどボディー側で最大限の配慮をしているのがライカのカメラという事になるのだとか・・・。ライカのレンズをアダプターを介して他社のカメラで撮影しても、総合的には「ライカの画像」ではないという事になるのでしょう。

 ライカを語るにはボディーもセットでなければならない。うーん。説得力はありますが我が家の財務大臣の説得は無理そうですねぇ。

 

L1000036

 比較的新しいM型ライカのレンズにはそのマウント表面に「6bitコード」と呼ばれる6個の白と黒の極小タイル状の模様が刻まれています。この模様の反射の違い(白と黒で2の6乗ですから64種に分類されている)をボディー側で読み取ることで、レンズに合わせた補正が行われメタデータに反映される仕組みとなっていますが、このデジタル時代に電気的ではなく、物理的(ボディー側のセンサー自体は電気仕掛けですが)に情報の授受をやってのけるのが、いかにもDRズミクロンやヴィゾフレックスを世に出してきたエニグマの発明国家の製品なのだと、関心することしきりです。当然本レンズにも同コードは存在し、LightRoom上でもそのメタデータを利用することが可能な訳ですが、最新のレンズでさえフイルムでの使用も想定(MPなどフイルムライカもちゃんと現行品)している筈ですから、ゴリゴリのデジタル補正なんて無縁でしょう。フイルム上にもきっと同じ映像を写し込んでしまうに違いないのです。

 ピントを合わせたガラスの破断面、妙にシャープでちょっと不気味ですよね。被写体も被写体ですが、その場の雰囲気をさらに盛って写し込む、そんな力が宿っているように感じるのです。たとえ100万円を無邪気に使い込める身分であっても、買うか?という質問には即答出来ねますが、このレンズでなければ出会えない映像が存在することを確かに認識した、そんな午後のひと時となりました。

 

プロフィール

フォトアルバム

世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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