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Voigtlander NOKTON classic 35mm F1.4

 

 

 Voigtlanderと聞いて「VITO」や「VITESSA」というフイルムカメラ、あるいはスチルカメラ用ズームレンズの元祖「Zoomer」などを連想する方は、わりかしディープなクラシックカメラファンということになるでしょうか?日本のカメラ・レンズメーカー「コシナ」がその名をブランドとして使い始めてからも、それなりに時間が経過していますから、今となってはこちらの方が馴染み深いと感じる方も多いのでしょう。しかし、デジタルカメラが登場する以前の「コシナ」を知っていた者からすれば、その変貌ぶりには驚きを隠せないのが事実です。当時は主にペンタックスKマウントのマニュアルフォーカス一眼レフや、各種マウントでのレンズ製造、あるいはOEM供給などを行っていましたが、どちらかと言えば低コスト重視の廉価製品が多く、「シグマ」・「タムロン」・「トキナー」といったサードパーティー御三家(?)の陰に隠れた存在であったと記憶しているからです。

 

 コシナがVoigtlanderブランドによる商品展開を始めたのは、確かカメラの主流がフイルムからデジタルへと移行を始める直前のあたりです。L39ライカスクリューマウントを採用したマニュアルフイルムカメラ「BESSA-L」とその交換レンズ群を皮切りに、レンジファインダーカメラ「BESSA-R」を発売したかと思えば、即座にライカMマウント互換のVMマウントを採用した「R2」へと進化、レンズ群もVMマウントを採用し「NOCTON」や「HELIAR」といったVoigtlander往年の名称を与えられた銘レンズ群を次々と充実させて行きました。価格も比較的低廉に抑えられていたことから、「プアマンズライカ」などと評される場面もありましたが、お客様曰くの「良く撮れんだー」が真理であり、やがてはZF、ZE、ZKマウントの一眼レフレンズ用レンズ群やレンジファインダー機Zeiss-IkonとZMマウントレンズ群、果ては中判カメラ・ハッセルブラッド用の交換レンズ、つまりは、あの「Zeiss」製品製造元の一つへと大躍進したのです。もちろん、コシナがこの下剋上的ブランディングに成功したのは、時代の変化やそれに伴う流行の影響もあったでしょうが、モノ作りメーカーとしての確固たるビジョンとその実現を支える確かな技術力が備わったメーカーだった、ただそれだけの事なのかもしれません。

 

 そんなVoigtlanderブランドの製品、ブランド名が持つ長い歴史から、安易に「伝統」や「レトロ」といった言葉を連想してしまいますが、現在のラインナップには、f値1.0を超える明るさを実現したレンズや、35mmフルサイズフォーマット用の焦点距離10mmの超広角レンズなどを筆頭に、非常に挑戦的かつ魅力的な最新鋭のレンズがゴロゴロしている事に驚きます。また、かなり早い段階でM4/3用の解放f0.95シリーズレンズ群をリリースするなど、ミラーレス機への順応スピードも特筆に値します。考えてみますと、「BESSA」以降始まったレンジファインダー用の交換レンズ作成のノウハウが、デジタル一眼のミラーレス化という時代の流れに見事に呼応したのかもしれません。2023年現在では、フルサイズミラーレスの先駆者であるSONY-α用の交換レンズだけでなく、最新ミラーレスNikon-ZやCanon-RFへの対応も着々と進行中。特筆すべきは、利便性追求が当たり前の世の中で、その全てがマニュアルフォーカス専用の単焦点レンズで占められている点で、それには「拘り」といった表現よりは「矜持」という言葉が相応しいと感じています。

 

 さて、魅力溢れる製品が多い中で取り上げたNOKTON classic 35mm F1.4 は、その美しい対称配置のレンズ構成から、ライカ製オールドレンズ代表の一角「Summilux-m 35mm f1.4」を想像します。現在は非球面レンズを採用して光学的性能を飛躍的に向上させた新型Summiluxへとバトンを渡していますが、設計当時の技術・光学素材では抑え込めなかった収差の大きさから、独特の描写特性を持つに至ったオリジナルのSummiluxの現市場人気は高く、可能であればフイルム時代に所有していた私に売却を留まるよう進言したいと思うほどに価格が高騰してしまいました。「味」と言えば聞こえは良いのですが、やはりそれなりに「癖」の多かったオリジナルSummilux。あえて非球面を採用せず、現代の設計技術と光学素材によってその美点のみを追求し「Classic」の銘を付与されたNOKTONは、すでに高い評価を得ているそのVMマウント版をミラーレスデジタル向けにファインチューンした逸品で、最短撮影距離の短縮化、電子マウント装備によるボディー内手振れ補正機構の最適化仕様となりますから、焦点距離35mm好きαユーザーであるならマストバイなレンズの一本ではないでしょうか。

 

 

Dsc00252

Summilux35mmをオリジナルとし、その描写を現代風にリファインしたと各所で評されていますが、なるほど言い得て妙。f1.4解放での描写にその特徴は色濃く表れます。解像度は十分ですが、全体的に紗をかけたような独特なソフトトーンが持ち味。ボケ(特に後ろ側)はややザワつく感じですが、全体的な柔らかい描写によってあまりガチャガチャと感じない印象です。周辺光量もしっかりと落ちますので、画面中心の良像域に自ずと視点が向けられる、美しい立体感を持った描写をしてくれます。

 

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大きなセンサーを使うメリットとして「広いダイナミックレンジが得られる」なんて言葉をよく目にしますが、ざっくり日本語化させてもらえれば、明るさ(暗さ)に対しての「懐が深い」って事ですかね。ヒストグラムの横軸が延びて分割数が増える印象です。調子こいてゴリゴリとアンダー側に露出を振る持病が発症したのは、シャドー部の軟調化に苦戦した元T-MAX100派のささやかな反撃なのでしょうか。。。(意味わからないですね、スミマセン)

 

Dsc00249

一見解像度が不足しているかの様な画像ですが、拡大すると合焦部の解像度は決して低くない点に気づきます。全体的にソフトに感じるのは残存収差による画像の僅かな滲み(ハイライト部で顕著)がその正体なのでしょう。現代では非球面レンズの導入がこういった収差補正のトレンドですが、Classicを名乗る本レンズはあえて球面レンズのみで構成し、設計とガラス素材の選定で本家Summiluxの「強すぎた癖」を抑え込んだようです。

 

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窓一つ無く、「雨どい」だけが存在する特徴的なビルの外壁。強烈な西日によって「雨どい」の固定金具が奇妙なほどに長い影を落とします。絞りf4での撮影ですが、僅かに残る周辺光量落ちとハイライト部の滲みが映像に独特の風合いをプラスしてくれました。純正レンズではない為にデジタル歪曲収差補正の恩恵はありませんが、対照型配置のメリットもあって光学的にかなり良質に補正されていると感じます。


Dsc00291

西日の射し込んだビルの隙間にある空調の室外機。かなり輝度差のある被写体ですが、ハイライト基準で露出を決定してもシャドーにまだ余裕を感じます。開放絞りでの撮影ですが、合焦部の室外機に貼られたラベルの文字もしっかり確認ができます。良いレンズと良いセンサーがあれば、これまで仕上がりに満足いかなかった被写体へのリベンジもできるという事でしょうか。ある程度の出費増は覚悟しなければなりませんが、フイルム時代に比べ大幅に上昇した機材の価格はいかんともしがたいですねぇ。比べてサラリーマンの給料って・・・・・(以下お察し)

 

Dsc00306

絞りをf4まで絞れば、画面の良像域は広がります。合焦部のシャープネスは非常に高く高密度センサーとの相性も良いようです。諧調も丁寧に描かれますので、排気用と思われる金属管の光沢感も素晴らしく、その硬さや冷たさが伝わってきます。

 

Dsc00318

開放での独特なふわっと感はやはりクセになります。画面中央部のシャープネスは必要十分で、周辺に向かってなだらかに解像度と光量が落ちて行きます。この緩やかな崩れ方が現代的に解釈したSummiluxの「味」なのでしょう。是非ポートレートでも使ってみたい一本ですね。

 

Dsc00343

この公園を訪れるとかなりの頻度で撮影してしまう被写体が、この道路上の指標。またもや、相当アンダーに露出振ってますが、この豊富なシャドー部諧調の為だけにでもフルサイズを購入する意味はありそうです。

 

Dsc00344

恥を忍んで「ヤラカシ」を。仕上がり設定をモノクロにして撮影していたため、知らないうちにホワイトバランスの設定が変更されていた事に気づいていませんでした。色温度2900Kで撮影されていた事に気づいたのはPCへのRAWデータ取り込み作業中という始末。しかし、瓢箪から駒とでも言いましょうか、これはこれで味わい深い仕上がりだったので、あえてWBを戻さずに現像してみました。フイルム時代のコダクローム40(タングステンタイプ)を思い起こさせる渋い発色ですね。そういえば学生時代このフイルムを使い、デイライト下の無補正でポートレートを撮るマイブームがありました。

 

Dsc00441

恥の上塗りでもう一つ。やはり同じホワイトバランス設定で撮影された1枚。こちらは富士クローム64Tを彷彿とさせる仕上がりに。(苦笑)揺れる水面に映った樹木と太陽ですが、異世界感がより増幅されたようです。オリジナルのSummiluxは強い光源があると派手にゴーストが入る場面にも遭遇しましたが、本レンズ、逆光耐性も悪くは無いようです。

 

  

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世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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