CONTAX Distagon 25mm f2.8 MM-J

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 Distagon21ミリほどの強烈な印象があるわけではなく、35ミリほどの万能性があるわけでもありません。比較的古い設計にあたるためか、開放付近では周辺光量も真面目に落ち、発色もどちらかといえば渋い方でしょう。f2.8という明るさも、とりわけ明るい部類ではなく、他メーカー製品と比べ約二倍の8万円超の価格設定は、購入するのに少々勇気が必要かも知れません。

 しかしながら、どういう訳か撮影時には迷うことなくこのレンズを携行している自分に、実は最近気がついたのです。

 カタログ値には現れない、描写上の底力とでも言いましょうか、25ミリでモノにした作品に、共通するある種の安堵感のような物を感じるのは、私だけでしょうか?その焦点距離が自分にとって使い慣れ、親しんできた時間が長いという理由だけでは到底説明の出来ないこのレンズへの信頼感は、やはりZeissレンズならではのものではないでしょうか。

 

 

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もともと澄んだ流れの梓川(上高地)ですが、フイルム上にも一切の濁りなくその姿を記録してくれました。スペック上には尖った部分の無いレンズですが、その仕事は一流です。

 

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逆光でも大きな画質の乱れはありません。Tスターコーティングの優秀さが実感されます。地面に張り付いて撮影した一コマですが、周囲からは完全に「不審者」ですよね。

 

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普段はあまり保護フィルター以外のフィルターは使いませんが、青空があまりに美しかったので偏光フィルターを使用。効きすぎて嫌味が出ないよう回転を調整して数カット撮影した中の一枚です。

 

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現在は鉄道遺構として綺麗に整備されてしまった変電所跡。学生時代はいわゆる「廃墟」化しており、地元に戻った際には時折赴く撮影スポットでした。目につく際立った描写特性の無いレンズですが、その仕上がりに落胆することのない不思議なレンズでした。

 

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廃線後の碓氷峠。少年時代はまだ運行中だった列車を撮影するため、鉄道写真好きだった知人の父上に同行して何度か訪れた懐かしい場所です。あの時は必死で車両写真を撮りまくっていましたが、時間とともに好みの被写体がずいぶんと様変わりしたものです。

 

 

CONTAX Distagon 35mm f1.4 MM-J

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 フィルムでの撮影がメインだった頃にもしレンズを一本だけ持って行くのだったら、そんな質問をされたなら、迷わずこの35ミリを答えていたのでしょう。

 f1.4の明るさは大抵のシチュエーションでの手持ち撮影を可能にし、ずば抜けた近接撮影時の能力は、簡単なマクロ撮影までこなします。開放付近では微妙な甘さを残した 合焦部分と、なだらかにつながるボケが人物を美しく捉え、f5.6まで絞ればレンズを交換したかのように素晴らしい色のノリとピントのキレを見せてくれます。フローティング機構の影響からか、撮影距離によっては若干背景のボケがうるさく感じられ る場面もありますが、そんな些細な欠点を補って余りある魅力を持つ、私にとっての万能レンズです。

 開発当時疑問視されたと言われる非球面レンズの導入ですが、今日高級レンズだけにとどまらず、多くの写真用レンズに非球面が導入されていることから考えても、Zeissの設計理念が決して間違いではなかった事が証明されたと言えます。

 常用携行レンズにするには、大柄の鏡筒と、ややもするとボディーよりも高額出費になりやすい価格設定は、決して万人にお勧めできるレンズとは言い難いのですが、デジタルが主流になり、中古相場が非常に下がっている今、Zeissの魅力を実感してみたい方は、まずこの一本をお使いになってはいかがでしょうか。

 

 

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条件によっては後ボケに多少のクセを感じる事もありますが、近距離から合焦面のキレの良さは一級品。大きさ・重量からすれば普段使いとは言い難いレンズなのですが、長らく私の「標準レンズ」となりました。

 

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逆光時の性能も高く、いじわるな条件下でもゴーストやフレアに困る事の少ないレンズでした。函館に旅行した際の一枚ですが、本レンズ、21mm・マクロ100mm・85mmのPlanar、そして予備のボディーと、なかなかのヘビー級機材でした。今ならちょっと躊躇う重さです。

 

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標準レンズとして随時携行していましたので、街頭スナップにも重宝しました。MFではありましたが、f1.4の明るさはファインダーでのピント合わせがとても楽に行える為、小気味よく撮影が可能です。当時は同じ描写傾向を持ったf2クラスの小型レンズを望んでいましたが、結局はZFマウントの登場までお預けとなりました。

 

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シャッタースピードが落ち込む状況でf1.4の明るさは大きな武器になります。咄嗟に感度を上げられないフイルムカメラにおいては、高い性能を維持したまま躊躇なく絞りを開けられる本レンズの存在は大きな保険になりました。

 

 


CONTAX Macro Planar 100mm f2.8 AE-J

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このレンズの購入前には、名高い60ミリのマクロを所有していたものですから、 当初は購入の候補にすら入っていなかった100ミリのマクロプラナー。

 依頼された撮影でどうしても中望遠が必要となり、勤め先の売り物を借用したのですが、その個体をそのまま買い上げてしまったほどに、その描写性能には驚愕しました。

 開放から完全に実用になるか、もしくは開放の描写に何かしらの代え難い魅力を感じるか・・・ それが、私個人のレンズ購入時の大きな選択理由となるのですが、マクロの名に恥じず開放から完全に実用となる画面全域の均一な精密描写、しかも、アウトフォーカス部分は、まるで溶けるようなマクロレンズらしからぬ描写を見せ 背景にハイライトを含む線状の物体があっても2線ボケとは無縁。色のヌケやカラーバランスも最高で、私が過去に抱いたマクロレンズに対しての悪いイメージを 一気に払拭してくれました。

 等倍撮影時の異様なまでの鏡筒の繰り出し量にはやや 閉口するものの、60ミリとはまた違った魅力を放つZeissの傑作レンズです。

 

 

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60mmと比較して大きなボケが得られるのは望遠マクロの大きな利点。ボケ像の質も60mmより柔らかい印象がありました。ワーキングディスタンスも長く撮れるので、山野草などの撮影には非常に重宝します。ブレ防止にはすこしばかり神経質になりますが・・・。

 

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透過する光に浮き立つ水芭蕉。足元は湿原ですからこんな時も望遠マクロの出番です。60mmと比較して大柄で重量もそれなりですが、どちらか1本を、と考えると100mmの方が有力候補になるでしょうか。

 

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中景~遠景でもシャープネスを存分に発揮してくれるので、こんな被写体もお手の物。周辺まで破綻の無い描写はさすがのマクロプラナーといったところでしょうか。

 

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前後のボケ像が極めて均質なのも本レンズの美点。マクロ域での被写界深度は相当シビアになりますが前後共にボケ像が邪魔になる事はなく、合焦部を美しく引き立ててくれます。

 

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当然、遠景を切り取るのも当レンズの出番。CONTAXには同じく100mmにf2のプラナーも存在しますが、最短撮影距離の短さで当レンズのメリットが勝り、私の周りにも85mmプラナーと100mmマクロプラナーの二刀流に落ち着くユーザーが多かった印象があります。

 

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前後のボケ像の美しさがとても良く伝わる1枚ではないかと。フォーカスヘリコイドはマクロ撮影での利便性を考慮してどちらかと言えば重めの操作感で、かつ作動範囲も余裕があるため俊敏なピント合わせは苦手になります。このボケ味をポーレートで・・・・とも思いましたが、マニュアルフォーカスではなかなかの苦行となるので覚悟が必要です。

 

 

 

Leica Summilux M 35mm f1.4

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「ライカってずいぶん高いけど・・・なにが違うのだろうか?」

 こんな疑問が私の心に沸き上がったのは、写真学生時代の後半、 自身の作風のマンネリ化に悩んだ頃であります。

 水洗浴から上がったフィルムを初めて見たときから、その結像の特異性は ある種の衝撃を私の心与え、その後のライカとの付き合いを決定づけました。 この旧式のズミルックスは、非球面が導入され、圧倒的なまでの高性能を謳った 最新のズミルックスの登場まで、「その場の空気まで写し込む」といった評価に代表される 古き良きオールドライカレンズの薫りを、新品で楽しむ事のできる数少ないレンズとして、 ほぼ登場初期の設計のまま、比較的長期間製造を続けられていました。

 ズマリット50ミリとともに「クセ玉」と良く称されるこのレンズは、 主に、開放付近では各収差の影響からくる意味不明なまでのハレーションとゴースト、 そして像のにじみを発生し、直接結像画面をファインダーで確認できないM型ライカでは、 被写体や光線状態を十分考慮しないと、結果が予測と一致しないフォトグラファー泣かせのレンズです。ところが、その独特な丸みを帯びた描写は何物にも代えがたい特徴的なもので、さらにf値5.6あたりから徐々に絞り込むと描写は一変。 まるで大判で撮影したかのような高い解像度を見せ、しかも像の潤いを損なわない 素晴らしい描写を見せてくれます。高性能化した新型が登場しつつも、昨今では中古相場が高値で安定してしまっているのも、単なる希少性に起因するものでは無いようです。

 諸般の事情からすでに手元には残っていませんが、今一度この手に納める日を夢に見る 愛すべきレンズの一本であります。 

 

 

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大学の卒業制作の為、宮沢賢治の故郷でもある岩手県花巻に何度か訪れました。所沢のアパートから高速道路を使っても6時間以上の道のり。午前中に出発しても到着するのは決まって日没間際でした。現地の空気を取り込み、絞り込んでも硬くなりすぎずに精密感だけが増してゆく独特の遠景描写の虜になりました。

 

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真夏の小岩井農場。東北の空にはどことなく秋の気配も。距離計ではピント合わせが難しい被写体ですが、焦点距離35mmですのでアバウトでもなんとかなるものです。

 

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古い建造物+ツタ系の植物は大好物な被写体です。修復を重ねた古いサイロの壁面と緑盛んな植物のコントラストが良い感じです。被写体、光線状態ともにフラットな状況ですが、絶妙な立体感が宿りました。

 

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花巻の帰路、芭蕉の句で有名な中尊寺に足を延ばしました。にわか雨が上がった後の湿った空気感が良く伝わってきますね。絞りを開けた際の僅かなハロが木の根の丸みをうまく引き出してくれました。 

 

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ズミルックス35mm最大の特徴は、やはり絞りを開けた状態での何とも言えない甘い描写ではないでしょうか。宮澤賢治ゆかりの地「羅須地人協会」での一枚です。実際にこの床の上を賢治が歩いていた姿を想像すると不思議な気持ちになります。木の丸みや温度、湿度といった状況を記録する際のマッチングは最高でした。

 

 

Zeiss Planar 50mm f1.4ZF

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 オスカー・バルナックによって完成され、その後世界を代表する35ミリサイズカメラとなった「ライカ」には焦点距離50ミリのレンズが取り付けられていました。

 以来、遠近感の極度な誇張や圧縮がないこの焦点距離は、35ミリカメラにおけるスタンダードレンズとして定着しました。写真に興味をもった方なら、どこかで必ず耳にするエピソードでしょう。今日の様なズームレンズが一般化するまでの長い間、カメラといえば50ミリを付けて買うのが一種当たり前で、実際、私が幼少期に借り出しては注意された父親のカメラにも、ニッコールの50ミリがり付けられていたのを記憶しています。それ故、50ミリレンズの設計、製造には多くのメーカーが心血を注ぎ、結果として「銘レンズ」とよばれるものが多く存在する結果となっています。ライカのエルマーやズミクロンにはそれぞれ熱狂的な信者とも言えるユーザーがいますし、国産のニッコールやロッコールなどを愛用するカメラマンも多いことでしょう。マニュアルフォーカス時代のキヤノンには、明るさ・レンズ構成別に5種類もの50ミリが存在していた時代もあるほどですから、標準というより、むしろ特殊レンズといった名称が似つかわしいほどです。

 そして、一眼レフカメラ用標準レンズの帝王として、やはり多くのフォトグラファーが愛用する50ミリにZeissのプラナーが掲げられます。開放付近では十分にシャープな合焦部にベールのようにまとわりつく柔らかなフレアがとても神秘的な印象をもたらし、f2.8あたりからは、ほぼ画面全域にわたり最高の解像感が得られます。また、実像感を残しつつ、なだらかに消え行く非合焦部の描写は、このレンズでしか味わえない至高の立体感を演出します。

 Y/C時代のMMレンズでは、開放付近のボケにややエッジが強調されてしまうという欠点がありましたが新生Zeissでは枚数を増やした絞り羽根との相乗効果で、「少しだけ絞った」プラナーの一番美味しいトコロを存分に堪能させてくれました。目隠しをしてでも操作が出来るほど、この手に馴染んだニコンのボディーに取り付けられたこのレンズは、文字通り、これから私の新しいスタンダードとなるでしょう。

 

 

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結婚式リハーサル前の会堂です。静まり返りどことなく漂う緊張感のようなものが伝わってきます。室内撮影による色温度の高い色調がそれを助長します。プラナーは解放付近の大きなボケやソフトなイメージが持ち味ですが、絞り込んだ時のスッキリとした写りも非常に好印象です。

 

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開放では、やや甘くなる描写と大きなボケがプラナーの真骨頂。基本描写はCONTAX時代のPlanarのそれと変わりありませんが、絞り羽根の枚数が増えている為、少し絞った際の背景の形状がより柔らかい印象を受けます。

 

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光源などは、若干エッジの立ったボケ像となるのも50mmの特徴。時に煩わしさも伴いますが、距離によってその表情を変えるので、遠近感の表現に一役買う場面もあったりします。

 

 

プロフィール

フォトアルバム

世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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