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NIKKOR Z 135mm f/1.8 S Plena

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 Nikonがフルサイズデジタル一眼カメラのミラーレス化を図った際、そのマウント(ボディーとレンズの接合規格)を変更し「Zマウント」としたことは、当然の事だったとは言え大きなニュースとなりました。日本光学工業時代に開発された、レンズ交換式フイルム一眼レフその第一号機 Nikon F の発売と同時に産声をあげた 「Fマウント」は、カメラ・レンズの進歩に合わせた細かなアップデートを重ねつつも、その基本的な規格を維持したまま60年以上の長きに渡り関連製品が販売され続けていたからです。過去にはオートフォーカス化を機にマウント変更を行ったメーカーも存在する中で「不変」を貫けたのは、メーカーの姿勢や哲学のような物の影響も否定はしませんが、基本設計の優秀さや先見性がそれを可能にしたと考えるのが妥当でしょう。そして「Nikon F」がその高い完成度と揺るぎない堅牢性、レンズを中心とした撮影システムとしての高い汎用性を持って、日本の光学製品を世界へと羽ばたかせる立役者となった事実は「Fマウント」の存在を抜いて考えることなどできないのです。
 
 主流がデジタルとなり、やがて各社が開発の主力をミラーレス機へとシフトする中、35ミリフルサイズデジタルカメラのミラーレス化と「Zマウント」の採用をNikonが発表したのは、SONYのα7(フルサイズミラーレス機の先駆)の発表から5年後(2018年)の事。すでに完成の域に達していたFマウントデジタル一眼レフのシステムを置き換える為に、そしてなによりミラーレス化の恩恵を最大限に享受する為の規格策定に相当の時間がかかったのであろう事が想像できます。こうして誕生した「Zマウント」はミラーレス構造によって許された短いフランジバックを手に入れたと共に、Fマウントよりも11mmも広い55mmのマウント径を採用しました。この二点の大胆な変更はレンズ設計の自由度を飛躍的に高める事になる訳ですが、同時に「Fマウント」では物理的に不可能であったレンズの設計を可能とする事を意味しました。言い換えるならFマウントでは設計を断念したレンズに挑戦する事が「Zマウント」に与えられた使命の一つだったとも言えるかもしれません。
 
 それを裏付けたのは、Zマウントレンズの第一弾に名を連ねたNIKKOR Z 58mm f 0.95  S Noct の存在です。長年のライバルでもあるキヤノンは、レンジファインダー機時代に50mm f0.95、フィルム一眼レフの時代に50mm f1.0といったスペックのレンズを販売していましたが、Nikonからはついぞ f1.0 を超える明るさのレンズは登場しませんでした。Nikkor 銘に恥じぬ性能を持たせるためのハードルも相当に高かったとは思いますが、他社の製品を横目に物理的限界に挑戦しつつも辛酸をなめ続けた設計陣には同情を禁じ得ません。フイルム時代のNocto Nikkor 58mm f 1.2を礎とし、Zマウント発表とともに公表されたf0.95 Noct にはその目立つスペックや描写性能の裏に真のレゾンデートルを感じるのです。Nocto Nikkor というシリーズ的呼称ではなく、あえてレンズ名の最後に「Noct」という個別の名称を与えた理由にもそれは表れているのでしょう。
 
 そして「Noct」と同様に特別なアイデンティティを与えられたレンズ、それが 固有名称を持つ第二のレンズ NIKKOR Z 135mm f/1.8 S Plena です。「Plena」の字面から初見では Zeiss の「Planar」と語源を共にする( Plan:平坦 <歪曲収差や像面湾曲を抑えた優れた設計を意味>)のかと早合点したのですが、実際はラテン語「Plenaum」(空間が満たされているの意)が由来であり、気圧が外部よりも高い状態にある密閉空間を示す用語として、工学・建築の分野などでも利用されているとの事ですが、二次元映像である写真と三次元的な要素をイメージする密度に関する言葉との関連性とはいったい何なのでしょうか。
 
 一見ミスマッチにも感じるその言葉と、女神を想起するようなミステリアスな響きを与えられた本レンズは、ミラーレス化以降活発に開発されている各社の最新大口径135mmレンズの一本に数えられます。主要スペックを見るに、手振れ補正機構を内蔵している為かCanonがレンズ使用枚数でトップとなる他は、レンズ構成群、全長、重量ともに最大となるのが「Plena」であり、価格に至っては頭二つほど飛びぬけた印象です。平均年収近辺でうろうろしている凡庸なサラリーマンには、もう簡単には手にできる価格ではありません。ここにもメーカーのただならぬ力の入れようが表れている訳ですが、もちろんレンズ枚数の多さが画質を上げるための必要条件ではなく、価格が上がったからとして、その描写性能も上がるとは限らないでしょう。まして個人的感情が多分に入り込む「描写性」に関する評価を絶対的な数値では示す事は出来ないのです。
 
 一通りのテスト撮影を終えた本レンズへの評価に際し、色々と思うところはあったのですが、果たして私自身はこのレンズが欲しいのか?とシンプルに考えることにしました。その答えは実写映像をみながら想像していただきたいのです。
 
【参考資料】<2025・10 現在>
SONY FE 135mm F1.8 GM【10群13枚 全長127mm 重量950g 直販298,100円】
Canon RF 135mm F1.8L IS USM【12群17枚 全長130.3mm 重量935g 直販338,800円】
NIKKOR Z 135mm f/1.8 S Plena 【14群16枚 全長139.5mm 重量995g 直販399,300】
  
 
 

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撮影可能だった博物館の展示スぺースにて。ガラスケース奥にあるクラシックな電話機を解放で一枚。うす暗い展示場でもf1.8 という明るさと、ボディー内手振れ補正のアシストを受けて余裕の一枚。本レンズ、画面全体に解放から文句のない解像度を示し、それは実写映像からもはっきりと感じられます。ガラスへの写り込みが効果的な前ボケに。

 

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展示されていたクリスマスツリーの飾りを、解放による近距離撮影。レンズの癖が出やすいシチュエーションですが、合焦部はもちろん、周辺の背景まで少しも乱れが見られません。口径食にもかなり気を使って設計されているようで、周辺のボケた光源もしっかり形状を保っています。

 

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エッジを少しも感じさせないボケ像ですが、かといって所在なく崩れてしまわずに、被写体の実像感を残しているのは見事。大口径レンズの解放にありがちな像の滲みもほぼ認められず、生地の糸一本一本が綺麗に描写されます。開放から使えるのではなく、とにかく解放で使いたいという欲求を抑えられません。

 

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合焦部から前後ボケ像への繋がり方が異常な程にスムーズ、と言ってしまえばそれだけなのですが、この映像からは合焦部・非合焦部全てを含んだ、全描写範囲における膨大な枚数のレイヤーを統合したかのような印象を受けるのです。CTスキャン画像を元に3Dプリンターで立体を制作する過程と言えば近いのかもしれません。この濃密な情報が一平面上に集積されて表されたかのような描写による被写体の質感、それはもう鳥肌もの。「Plena」それが意味するところに、私なりの結論を導いた一枚となりました。

 

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硬質な床面に反射する室内灯とそれによって生み出された家具の影。なんの変哲もない被写体ではありますが、映像から感じるそのリアリティーの凄まじさは特筆もの。レンズを通して生成された画像を見ていると言うより、実際にそこで目にしているような感覚に陥ります。

 

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ポートレートを主眼に置いて設計されているであろう本レンズですが、絞り込んで遠景を描写するという、真逆とも思えるシチュエーションでさえ強烈な印象を与えてくれます。望遠レンズの特徴である遠近感の圧縮を受けた画像ですが、屋根瓦の重なり、針葉樹の葉や樹皮、スタッコ壁面に宿る一つ一つの立体感が、写真=平面であることを忘れさせます。

 

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決して極端な接写を可能とするレンズではありませんが、薔薇の花のような比較的大きな被写体であれば、大きなボケを生かしてマクロレンズの様な撮影も可能です。大きくボケた背景の葉にさえも確かな前後感が宿り、結果被写体周辺の空気感がとても良く伝わってきます。

 

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中学校時代に技術家庭科室(今は違う呼称でしょうか?)で使っていた事を思い出した、特徴ある木製の椅子。撮影に訪れたガーデンの屋外休憩所で再利用がされていました。賑わう教室、カーテン越しの日差し、すこし埃っぽい匂い、そんな懐かしい記憶が次々に想い出されます。

 

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最短撮影距離付近での撮影。まだまだ暑い9月の下旬、高原では赤とんぼが羽根を休めていました。被写界深度を稼ぐ為、少しだけ絞っての撮影です。トンボの複眼や翅脈、体毛や棘、そのどれもが超高精細に記録されているのが圧縮された画像からでも伝わります。

 

 

 

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世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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