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Leica Summicron M 35mm f2 ASPH Part 2

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M4ブラッククローム装着例(Bodyはもちろん私物ではありません。シリアル部分は画像加工しております)

製造年と私の誕生年が近い為、20数年前には購入を考えたこともあるM4ブラッククローム。当時に比べて大幅に価格が高騰してしまい、もはや宝くじで高額当選でもしない限りとても買えないシロモノになってしまいました。同じブラックでも市場では塗装モデル(いわゆるブラックペイント)の方が人気もあり高価ですが、個人的には渋めのブラッククロームが好きなんですよねー。

 

 欲を言えば、一度使用(試用?)したレンズ、特にその描写性能に代えがたい何かを見いだせたなら尚更の事、そのレンズを手放さずに生涯手元に置いておきたいものだと常々考えています。しかしながら、実際その野望を可能にするような収入や貯蓄等々は微塵もございませんので、新な機材を購入するにあたっては、結果的に持ち出し優先度の下がったレンズを売却するのがいつもの流れになっています。

 と言いましても、たとえ使用頻度が下がり、なおかつ換金性が非常に高かったとしても容易に手放せないレンズ、そういった物も中には存在しています。私にとってのそれが、この「Summicron M 35/2 ASPH」なのです。本レンズは、20世紀末に新品で入手し、M6のボディーと共に当時スナップやポートレート撮影などに持ち出していましたが、M型ライカのボディーを手放して以降、メイン機材のデジタル化などもあって、近年では防湿庫でダンマリを決め込む事が増えておりました。勿論、マイクロ4/3フォーマットカメラを導入する動機の一つでもあった、マウントアダプターを介しての撮影も行ってはいましたが、本来広角レンズである35mmが、4/3フォーマットでは70mm相当の画角という馴染みのない中望遠になってしまう事や、画面中心の良像域のみがトリミングされてしまうために、映像にこれといった面白みがなくなかなか持ち出す頻度の上昇には繋がりませんでした。

 さて、35mmサイズでのフルサイズミラーレス一眼、SONYのα7初代が2013年に登場し、一眼「レフ」では物理的に不可能だった、M(L)型ライカ用のレンズがデジタルカメラでも活用できるようになった事で、俄かに人気が出始めたマウントアダプターを併用しての撮影が、一気にブームとなりました。猫も杓子もといった感じで、国内外多数のメーカーがマウントアダプター事業に参入をしましたが、最近になっても都内デパートなどで行われる中古カメラの催事で目にするお客様の「α」の殆どに純正AFレンズではなく、マウントアダプターを介した他社のレンズが装着されている事からも、それはもう一過性のブームではなく、撮影スタイルの一つとして定着したと言う事なのでしょう。しかし一方で、何故フルサイズ「α」+マウントアダプターによる撮影がこれほどまでに人気を博したのか?そんな疑問も実は頭の隅に残ってはいたのですが、偶然入手(入荷)したジャンク「α7Ⅲ」(一部機能を無視すれば一応撮影は可能)によって、じわじわと腑に落ちる感覚を覚えました。

 EVFとは言えファインダー越しに実際のレンズの描写を確認しながら撮影するという、一眼レフでは当たり前なのにM型ライカでは不可能だったこの作業を行えることが、実は新鮮かつ衝撃となり、次第に私を虜にして行きました。M6時代にもとりわけ不便さを感じていた訳ではないのですが、レンズのヘリコイドや絞り操作に伴って変化する画像のピント位置、ボケ量を吟味しながらMマウントのレンズで撮影できる事に撮影作業の楽しさを再確認し、発売から10年を数えようとする「α7」を、何故もっと早く入手しなかったのか、過去の自分に文句を言いたい気分にもなったのです。(ホントは購入資金が無かっただけですが)加えて「α+Summicron」が紡ぐ「絵」が想像をはるかに超えて「上質」だった点も無視できません。Summicron M 35/2 ASPHは、かつてフイルムが全盛だった頃、ライカ社が非球面レンズを導入し物理的な性能向上を果たししつつも、かえって「没個性的」とされ、肥大化した外観・重量も含め巷では歓迎されない節もありました。ですが僅かのマイナーチェンジを経てほぼそのままの光学系で販売が続けられている事からも、当時から相当なポテンシャルを持っていたことが、2000万画素を大きく超えるセンサーを搭載するデジタルカメラの登場によって明確に証明されたとも言えるのかもしれません。

 ちなみに、本レンズが簡単には手放せない理由なのですが、これが「結納の返礼品」だからなのです。本レンズを手放す時があるとすれば、それは「私自身」が「不要」になった時なのでしょう。願わくは、このレンズが永遠に手元に残りますように・・・。

 

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α7系は、どういう訳か最近まで1:1のアスペクト比での撮影ができませんでしたが、当然ここはフイルム時代に想いを馳せ3:2の比率で撮影。比較的設計は新しいレンズですので、解放から中心部の解像度に不安は一切ありません。フルサイズセンサーの余裕もあってか、画面全体の諧調表現・コントラストも美しくメリハリのある映像となりました。周辺に向かって徐々に解像度が落ちて行きますが、画像が乱れるイメージではなく「ボケ」に近い緩やかな画質低下を見せます。この辺りが画面全体から感じる独特のリアリティーを生み出しているのかと感じています。

 

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初代8枚玉からSummicron35mmのボケ味は「やや硬め」で特に後ろ側で周辺にエッジを感じるボケ像となるのが「伝統?」です。ASPHになってからの世代も、二線化を感じる後ボケとなりますが、あまり「煩わしいボケ」に感じないのが不思議なところ。高額商品への忖度?などと勘ぐったりもしますが、このボケ像が写真ならではの巧みな空気感を生み出しているに違いないのです。雨上がりの少し冷たく湿った空気の感じが映像から見事に伝わってきます。

 

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さすがは単焦点レンズ、デジタル補正の恩恵は受けられませんが歪曲収差はほとんど実感できません。非球面化される前のモデルではやや樽型の収差を感じた記憶もありますが、本レンズではそれを感じる事はありません。木材、金属ボルト、水草、それぞれの質感がとても良い感じです。

 

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空気の澄んだ秋晴れのドピーカン。ハイライトとディープシャドーにどれほどの輝度差があるのでしょう。崩れ落ちた廃墟の天井からの木漏れ日を基準に、大胆にアンダー側に振った露出。センサーの懐の広さが試されるような状況でもありますが、豊富なシャドーの諧調は見事の一言。多諧調モノクロ印画紙では0~1号紙あたりを容赦なくチョイスしそうなシチュエーションです。

 

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M型ライカ用のレンズは距離計連動の制約から最短撮影距離はあまり短くありません。本レンズのスペックは70cm(一眼レフ用の35mmレンズだと40cm前後が一般的)となりますが、それはあくまで機械的な限界の話。ヘリコイド搭載のアダプターを利用すれば簡単に接写も可能となります。前後のボケ像が乱れたり全体の解像感が落ちる様子もなく、合焦部のシャプーネスも健在ですから簡単なマクロ撮影も十分に対応できます。 

 

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シャドーの描写がお気に入りとなったので、容赦なくマイナス補正方向にダイヤルを回してしまいます。クリスマスを控え、ムードを高める装飾を施した土産物店のウインドーをスナップ。異なる素材の質感や、人形のリアリティー、ガラス越しの店内の空気感などを高精細に記録します。画素ピッチが狭い高画素機=ノイジーというのはやはり過去の話なのでしょう。センサー性能の向上には目を見張るものがあります。

 

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一枚くらいはカラーも入れないと・・・・。しかし、カラーでも必要以上にローキーにしてしまう悪癖が発症してしまいました。ハイライト基準で露出を決定しても、決して潰れてしまう事がないのでこれくらいが「丁度良い」のかなぁ。と・・・。 

 


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夕刻、日没前ですが露出を切り詰めて深夜を思わせる描写に。宮沢賢治の童話「月夜のでんしんばしら」を思い出す一枚となりました。

 

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ライフワークとなりつつある植物の記録。これまではスクエアフォーマットを多用していましたが、「長方形」もいいものですね。開放ではご覧の通り周辺減光を感じる描写となりますが、ここを安易に補正してしまうのはやはり勿体無いですよね。

 

 

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世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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