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Leica Summilux M 50mm f1.4 1st

 「写真は何時発明されたのか」という問の答えには諸説あるのですが、研究室レベルの発見ではなく、カメラと感材を含めた体系的な「写真術」として広く発表された「ダゲレオタイプ」を「最初の写真」とする考え方が一般的でしょうか。年表に1839年と記されるダゲールによるこの発明を発端とすると、写真の歴史は2020年の現時点でざっと180年余りという事になります。

 ところで、日本がカメラ製造の大先輩であるドイツのライカ社に先んじて、クイックリターンミラーを搭載した「一眼レフカメラ」の量産に成功し、カメラ王国としての地位を固めるきっかけとなったのが、ざっくりと1960年頃とすると、ミラーを撮影光学系に取り込んだいわゆる「一眼レフ」がカメラの代表を務めたのはここ最近の60年。写真・カメラの歴史からするとおおよそ1/3の時間ということになります。そして近年、ハロゲン化銀の感光性を利用した「銀塩(フイルム)写真」から半導体の光電効果を応用した「デジタル写真」へと写真術が急速に変貌して行く中で、我々は再びカメラからミラーを取り外した「ミラーレス・一眼」を誕生させました。無論しばらくはクイックリターンミラーを用いたデジタル一眼レフも生産されるでしょうが、主流が「ミラーレス」へとシフトして行くことに疑う余地はないでしょう。現在、旧来のカメラを「フイルムカメラ」と呼んでいるがごとく、「一眼レフカメラ」に別の呼称が与えられる日が来るのかもしれません。

 いわゆる「写真愛好家」の中ではかなり早い段階からミラーレスユーザーとなっていた私ですが、購入に至った大きな理由の一つにマウントアダプターを介してM型ライカ用のレンズで撮影が出来た事が挙げられます。機構上短いフランジバックでの設計が可能なミラーレス一眼は、アダプターを挿入する物理的余裕に恵まれており、これまでアダプター併用が難しかったライカを代表とするレンジファインダー機(そもそもミラーを持たないショートフランジバック機なので)のレンズが簡単に使用できるようになったのです。今でこそアダプター併用による世代やメーカーを跨いだ撮影は当たり前となりましたが、以降、レンジファインダー用ライカレンズの中古相場が跳ね上がったのも、同じ結論に達した同朋がいかに多かったかを物語っています。

 さて、本題に入りましょう。入手した個体はシリアルから判断するに、それまで長きに渡りハイスピード標準レンズを務めたSummaritからバトンを受け継いだ、初期のSummiluxとなります。Summaritはテイラー&ホブソン社特許・シュナイダー製のXenonを祖としますから、ちょっとヲタク的視点から見れば、最初のライカ純血ハイスピード標準レンズという事になりましょう。マイナーチェンジで光学系に「空気レンズ」の理論を取り入れ描写性能の向上を図る前のモデルですから、現代まで続く50ミリSummiluxの原点という事になります。解放時は画面全体のコントラストが低く、やや硬さと癖の残る後ろボケなどオールドハイスピードレンズらしい特徴をもっていますが、それを補って余りある画面中央部の解像度の高さは目を見張るほどで、それによってフレアをまとった解放描写には独特の品格が漂います。画面中心部を切り取る撮影となるマイクロ4/3機では、実にこのオイシイ部分だけをうまく利用する事が出来ます。そして絞り込めばフレアは消滅し、中心部の解像度はさらに上がって最新のデジタル用レンズに引けをとらないレベルに達します。仕上げの美しい金属外装は「貴婦人」と称えられることもあり、絞りやヘリコイドの操作感も衰えを見せないあたり、往年のライカ製品の作り込みの確かさを実感できます。フイルム時代は総じて優等生な描写特性を持つSummicronに比べやや人気が薄かったSummiluxですが、近年のオールドレンズブームも手伝い、今では倍近い相場で取引がされています。学生時代に買っておけば一儲けできたかも・・・・なんて思っているうちは真のライカユーザーになる日はやってこないのかもしれませんね。

 

 

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ちょっとタイムスリップしたかのような画像に出会えるのがオールドレンズの醍醐味のひとつでしょうか。スマートフォンの高精細・高彩度画像に慣れた若年層にはむしろこれが「新しい写り方」に見えるのかもしれません。淡いコントラスト、ハレーションによる滲み、ややシフトしたカラーバランスなど、被写体とマッチすると独特の世界が広がります。開放の為、盛大なハレーションが確認できますが、中心部の解像度は相当高く、拡大すれば葉脈までしっかり確認できます。

 

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カラー映像で見られたハレーションは、モノクロ映像ではトーンの柔らかさを醸し出すようです。古い集合住宅は解体を控えてひっそりと佇んでいますが、考えてみますと、撮影したSummilixの方がもっと古くから存在しているのですから、なんとも不思議な感覚です。

 

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ハイライト重視で露出を切り詰めましたが、案外と眠いトーンになりました。シャドーがバッサリと落ちてしまわないのもこのレンズの特徴でしょうか。凡人には理解ができない不思議な曲面をもった発電用風車のプロペラの「ぬるり」とした質感をうまく出してくれました。f8程度に絞っての撮影ですが、解像感が非常に高く、偶然被写界深度内に写り込んでいる「トンボ」の羽が4枚なのもしっかり判別できました。

 

P1111980

ボケの様子を確認するべく、庭の花壇を撮影。記憶にあったSummiluxのボケのイメージよりは思ったよりも暴れませんでしたが、やはり後ボケはやや癖のある二線ボケ傾向のものとなります。昨今はこういった「ボケ」を好む方たちも少なくないと聞きます。ブームとは不思議なものですね。

 

P1111864

移転後の総合病院の解体風景。絞り込んだ際は画面全域(といってもマイクロ4/3なんですケド)がシャープに結像。歪曲収差もほとんど感じられず設計の優秀さを感じられます。防音シートに印刷された「防音」の文字もくっきりと確認できます。

 

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世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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