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2020年6月

Carl Zeiss Apo-Sonnar 135mm f2 ZF.2

 カメラの歴史の中で、これほどまでにクラッシックレンズに注目が集まった事があったでしょうか?マイクロフォーサーズのミラーレス一眼が登場してから本格化した、マウントアダプターを介しオールドレンズを用いる手法は、センサーをフルサイズ化したモデルの投入を受け、一つの撮影スタイルとして完全に市民権を得たようです。

 オールドレンズによる撮影は、フイルム時代のレンズ資産をデジタルカメラで上手く生かすための緊急回避策でもありますが、一方で、高性能でありながらも何処か画一的で、無個性的な現代のレンズがもたらす描写へのアンチ・テーゼといった側面も持ち合わせます。事実、高性能なガラス素材や、確立された設計理論、そしてコンピューターを利用した高度なシミュレーションを用いる術のなかった時代のレンズは、現在のレンズと比べはるかに残存収差が多く、その収差が結像に大きな影響を与えた個性的な描写を見せるものが少なくありません。設計者の腕は、これらの収差を少なくすることはもちろんの事、どの収差をどれ位のバランスで残すのか?といったところで発揮されていたのでしょう。対峙する際に緊張を求められるような、高精細・高密度な映像に囲まれている現代においては、旧世代のレンズ描写にある種の安堵感を求めてしまうのも、自然な流れなのでしょう。

 それでは、レンズの高性能化とはいったい何なのでしょうか?フイルム時代に比べ、2000万を軽く超えた撮像素子が投入されるようになった昨今では、レンズの結像性能にはより高いレベルが必要だとされています。残存収差を極めて低いレベルで抑えこみ、高解像・高コントラストな結像性能を与えられたレンズは、これからも、ただ引き換えに個性を失くして行くだけなのでしょうか?

 そんな心配はどうやら杞憂にすぎませんでした。そう確信させたのは、ドイツ光学メーカーの雄Carl Zeissが放つ最新設計のレンズ群です。中でも後発となる本135ミリは、残存色収差抑制への必要性から、伝統の「Planar」ではなく新たに「Apo-Sonnar」の冠を与えられ、その高性能ぶりは解放f値から遺憾なく発揮されます。135ミリともなれば、解放付近での被写界深度は極わずかしかありません。しかし、前後の非合焦部へのつながりがきわめて自然であるために、画面に不必要な緊張感が生まれません。10枚以上のガラスを通ってきたとは思えないほどの透明感あふれる描写は、ファインダーでも存分に堪能でき、センサーの性能を遥かに凌駕するであろう分解能の高さは、まるで細密描写された水彩画のごとく繊細な画像を形成します。ハイライトからディープシャドーまでの諧調も豊かで、HDR合成を見せられているかのような錯覚に陥ることさえあるでしょう。

 結像性能に対し一切の妥協を許さないとされるLeicaやZeissの哲学は、デジタル時代においても決して左右されることなく、個性とも受け取れる収差を徹底して排除することで、逆説的に究極の個性を手に入れたということになるのでしょうか。

 ただし、価格も相当に究極的ではあるのですが・・・・

 

 

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傷んで割れ目の見え始めた車両の塗装面。西日が射しこみ何とも言えない雰囲気が漂います。凹凸を見せる塗装面の質感や合焦している識別文字部のシャープネスが見事です。何という事もない日常の一コマを印象的に切り取ってくれます。単純明快、良いレンズです。

 

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このくらいの焦点距離になると、望遠レンズ特有の圧縮効果が表れてきます。旧国鉄の足尾線(現:わたらせ渓谷鉄道)の終着駅「間藤」から少し歩いたところにある有名なタンク。以前に訪れた時と比べ随分と腐食が進んでいるように感じます。

 

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京セラ時代のPlanar135mmにも感じた事なのですが、本レンズは他のZeissレンズと比べ、どことなく発色があっさりとして水彩画の様な印象を受けます。撮影地の足尾では、かつて銅で栄えた町の歴史を閉山後の現在でも所々で目にすることができます。

 

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建物の変形は決してレンズの歪曲収差ではありません。この物件近くの古い木造の建物は3.11の震災で大きく破損したために取り壊されてしまったようです。銅山時代の遺構の多くは、老朽化が進み、近年取り壊されたり整地化されて別の目的に使用されたりしています。

 

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足尾駅構内に保存されている気動車の床下部品。解放時の描写は本レンズでしか味わえない独特の「味」を醸し出します。比較的明るい望遠ズームがあると、出番の少ない135mmではありますが、このレンズでしか味わえない描写もあったりするので、困ったものです。

 

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被写体まで距離がとれる135mm。お昼寝を邪魔することなくこっそり一枚。解放付近の被写界深度は非常に浅くなります。幼い猫の毛質とマッチした柔らかなボケ味も本レンズの魅力の一つ。前・後ともに癖がなく美しいボケ像を作ります。

 

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遠景といっても135mmクラスとなればそれなりに被写界深度は浅くなります。合焦部、ボケ像ともに、レンズの繊細さが際立ちます。

 

M.ZUIKO DIGITAL ED 12mm F2.0

 現像の終わったモノクロフイルムを水洗浴から取り出した際、経験したことのない明らかな異質感を覚えたのは、職場の売り物をレンタルしたLeicaのM-Summilux35/1.4(球面)のテスト撮影の時でした。OLYMPUSがM4/3マウント向けに発売する広角単焦点レンズである12ミリ(35ミリフルサイズ換算で24ミリ相当の画角)の本レンズで撮影した画像をPCのモニターで確認した時、実はよく似た感覚を覚えました。的確に表現する言葉を上手く選択できずにいますが、このレンズは「何かが違う・・・」確かにそう感じたのです。

 デジタルカメラ用の最新レンズですから、当然ながら歪曲・色・等の収差はカメラ内で補正され、良好に施されたレンズコーティングと優れた光学素材の採用・設計によって、絞り開放から全画面に渡り非常に均整のとれた高解像度の画像を提供してくれます。しかし、その解像度・コントラストの高い描写と一転、中間調はとても豊かな階調をもち、ややもすると鑑賞者に緊張感を強いてしまう「いわゆる現代的な描写」とは無縁です。被写体をその広い画角とともに優しく包む包容力の様な物をこのレンズは持っているかのようです。

 写真を本格的に撮るようになって、最初に購入した広角レンズは24ミリでした。以来シグマ24/2.8・ニコンAi-s24/2・ニコンAF24/2.8D・コンタックスDistagon25/2.8・コシナZF25/2.8と数多くの近似焦点距離のレンズを愛用しましたが、本レンズはその中でも最高峰のお気に入りとなりました。描写性能だけでなく、金属鏡筒の美しい仕上げと、マニュアルフォーカス時の節度あるトルク感など、所有・使用に際する感覚にも細かく配慮が行き届き、可能であるなら一眼レフの光学ファインダーを透して撮影してみたいと、極めて矛盾に満ちた欲望に駆られる自分を発見するでしょう。

 入手以来、M4/3のシステムでの最少携行レンズは、本レンズ・Summilux25/1.4・Macro-Elmarit45/2.8となっています。気づけば残り2本はライカのネームとエッセンスを受け継いだパナソニックのレンズ。私が過去、Leicaの描写に感じた異質感への、この共感を裏付けているかのようです。

 そういえば・・・・この小型レンズにはやはり必携の、素晴らしい仕上げの純正レンズフードが存在していますが、価格もライカ純正品相当だったりするのは何かの偶然なのでしょうか?

 

  

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前述しましたが24ミリの画角は使用歴が長く、自分にとって「広角レンズ」の代表です。誇張されたパースとマイクロフォーサーズマウントでのより深い被写界深度を利用し、写真ならではの表現方法を。レンズ本体も非常に小型なので、スナップシューティングには最高の相棒となります。

 

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最新の設計レンズですが、コントラストが高すぎる事もなく、逆光でも中間調の豊かな描写を見せてくれます。どことなく古いライカレンズのテイストを感じる仕上がりが写欲を誘います。

 

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強い日差しを浴びる工事現場用の防音シートです。もっとガチガチな映像を想像していたのですが、ことのほかアッサリ描写。なんだか不思議なレンズです。

 

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日陰に入るとご覧の通り。ゆったり、まったりとなんともスローな写り。EVFをアングルファインダー的に使用すると、ローライの二眼レフで撮影しているかのような感覚にもなります。

 

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諧調が豊富なので、露出を思いっきり切り詰めてもシャドーにしっかり諧調が残ります。シャープネスも高く、デジタル補正の恩恵でディストーションも気にならないので、建築物の撮影にも好適かと。(画面が微妙に傾いいているのは私の不徳の至すところです・・・)

 

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日没後の日本海。130グラムと非常に小型・軽量なレンズですから、ボディー内臓の手振れ補正機構を生かせば、フイルム時代には三脚必須であった低速シャッターでも余裕で手持ち撮影が可能です。デジタルになって出番がめっきり減ったアクセサリーといえば「三脚」と「フラッシュ」ですね。

 

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12mmという焦点距離の為、ボケを生かして撮影することは多くはありませんが、前後のボケもご覧の通り。後ボケに若干の二線ボケが感じられますが広角レンズとしては優秀でしょう。マイクロフォーサーズの交換レンズは最短撮影距離が短いものも多く、0.2mとなる本レンズも例外ではありません。

 

Nikon Ai Nikkor 35mm f2s

 写真を撮ることに興味を抱き始めた頃は、自分ではカメラなんて高額な買い物ができる年齢ではなかったので、撮影には必然的に自宅にあった父のカメラを持ち出す事が前提でした。そのカメラが「NikonFE」で、レンズは50ミリの標準と75-150ミリの望遠ズームレンズでした。わずかな機材でしたが、学校内でのスナップや趣味の鉄道写真を撮るには十分で、以来自身のメイン撮影機材は長年「Nikon」でした。

 その後、プロカメラマンへの憧れから写真系の大学に進学し、卒業後にブライダルの仕事を始めるまで、ずっとこの手には「Nikon」が存在していました。そして、この35ミリは、プロカメラマンを目指し写真に明け暮れた大学時代にもっとも活躍したレンズの一つです。今までの写真人生の中で一番ショット数が多かった大学時代に、もっとも信頼していた一本という事になります。

 一般的にNikkorは、やや高めのコントラストと力強い合焦部の描写を見せますが、反面、繊細なイメージを持たず、ボケも堅くなるイメージがあります。ところがこのレンズはそんなニコンレンズ中異色な存在なのか、開放付近では優しいコントラストと繊細なピントの切れを見せ、最短撮影30センチでも美しい描写をします。とあるエッセイでsummicron35ミリに勝るとも劣らないという記述を見たことがありますが、それは、単なるお世辞では無いでしょう。少々残るタル型の歪曲と開放付近での若干の二線ボケも、経験的に感じるsummicronの描写特性によく似ています。

 フルサイズデジタル一眼が普及した今日、今一度ニコンのレンズシステムを組む機会に恵まれたなら、真っ先に購入する一本となるでしょう。

 

 

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「いいな」と思った情景をストレートに再現してくれる35mmの画角。80~90年代、ニッコールには解放f値別に1.4・2・2.8と3種類がラインナップされていました。1.4を所有していた時期もありますが、解放時のヤンチャな描写とボケ像になじめず、結果f2の本モデルが長期間「標準」として手元に残りました。

 

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解放では少々の周辺減光、若干のボケ像の硬さがありますが、近接能力も高くオールマイティーに活躍。合焦部のキレも良く、絞り値・撮影距離によらず満足度の高い映像を提供してくれました。ファインダー像も明るく、ヘリコイドの操作感も上々と撮影していて楽しいレンズでした。

 

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早朝、まだ肌寒さの残る桜の季節。自宅近くのため池で凪いだ水面を眺めていると、不思議とこちらの気持ちまで静まって行きます。フイルムを詰め、マニュアルフォーカスでピントを合わせ、露出計の表示を睨みながらシャッタースピードを定め、一枚一枚レリーズボタンを押し込み・・・・随分とご無沙汰になった一連の儀式ではありますが、ひょっとして自分にとってはある種の「健康法」だったのかもしれませんね。

 

CONTAX Tele-Tessar 200mm f4 AE-G

 近い焦点距離に復刻オリンピアゾナーでもある名高いSonnar180mmf2.8を控え、Vario-Sonnar80-200mmf4という強力なズームレンズのライバルの出現以来すっかりと出番を無くし、雑誌などでも過去にあまり紹介された記事を見たことがない200mm。販売期間の短さも手伝って中古カメラ店でもその姿を希にしか見ることができないTele-Tessar200mmは、描写性能追求のため一般的に大型化、重量増加しがちなZeissレンズラインナップ中Sonnar85mmなどと並び小型軽量の部類に入ります。

 その構成枚数の少ない無理のない設計のためか、非常にクリア且大変に艶のあるい色ノリの画像を提供し、「開放F値の暗い=廉価版」というイメージは一切漂わせません。開放から切れ味の鋭い描写がウリのSonnar180mmとは違い、開放絞り付近では丸み、暖かみを帯びた絶妙な描写をします。望遠レンズ特有の大きなボケもガサついたところが無く、深度の浅い合焦部を美しく引き立てます。

 ズームレンズとはいえ非常に優秀な結像性能を誇る80-200mmと比較し、コストパフォーマンスで見劣りこそしますが、手放した過去の自分に少々の後悔を覚えます。ISO感度を自由に操れるデジタルカメラにおいては、f値一段分よりも、その小型・軽量な鏡筒が大きな武器となるでしょう。Sonnar85mmやDistagon35/2.8とともに、Zeissのスモールレンズが脚光を浴びる時代がやってきたのかもしれません。

 

 

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200mm相当の画角は標準ズームに内包されていることも多い昨今ですが、自分が写真を始めた当初は憧れの焦点距離の一つでした。単焦点の200mmは、肉眼では想像が難しい世界が突然ファインダーに出現するので、ズームレンズの200mmとは少々違った印象があります。構成もシンプルで小型・軽量なレンズですから長時間手持ちで覗いていても疲れません。

 

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「鷹の目」とも称されたオリジナルTessarの子孫らしいシャープな結像です。手の届かない遠景をシャープに切り取るのが望遠レンズの真骨頂。

 

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絞りを開けると丸みのある艶っぽい描写に。ボケ像も柔らかく、色のノリが良いのでこういった被写体にも絶妙にマッチします。しかしながら、最短撮影距離は決して短くはない1.5メートルと、同じくコンタックスのVario-Sonnar 80-200mmの1メートルと比べてなんとも微妙です。でも、この写り方、好きなんですよね。

 

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今風に言えばオールドレンズらしいという言葉になるのでしょう。今となってはズームレンズでさえ、もっとキレ味の鋭いレンズに沢山お目にかかりますが、なんとも癒されるこの描写にやはり捨てがたい魅力を感じてしまいます。

 

 

CONTAX G Biogon 28mm f2.8

 絞り羽根を挟み、前後対象にレンズを配置する対象型レンズは、描写上問題となる各収差を効率的に除去できる設計方法として、レンズ設計の中では非常に歴史が古く、現在でも大判カメラ用レンズでは主流のレンズ構成となっています。

 しかしながら、レンズ後端とフィルム面との間にミラーを配置しなければならない一眼レフでは、短い焦点のレンズを対象型で設計する事は物理的に不可能となります。このため一眼レフ用の短焦点レンズでは、レトロフォーカスと呼ばれるレンズ構成を用いる事が多いのですが、残念なことに新種のガラスや最新の設計理論を用いたとしても、歪曲収差や色収差の補正面において、対象形設計のレンズの性能を再現することは困難を極めます。

 ですから、ミラーボックスを排除したコンタックスGシリーズ用の広角レンズとして、「Biogon」の名を冠する対象形設計の銘レンズが復活したことは、写真界にとってまさに福音とも言えるでしょう。 銘レンズの名に恥じない完璧なまでに補正された歪曲収差。少ない構成枚数がもたらす何処までもクリアな画質。そして素晴らしいコントラストと解像感。さらに写りの凄まじさからは想像も出来ないコンパクトな鏡胴とリーズナブルな価格。その魔力はいったい何人のフォトグラファーをGシリーズ所有者と化したのでしょうか。

 デジタルのフルサイズミラーレスが発売になるや否や、マウントアダプターが各社からリリースされ本レンズも中古相場が高騰しましたが、センサーへの入射角がきつくなる特性を持つビオゴンタイプの宿命で、デジタルでは周辺画質にいささか問題が出る為か現在では沈静化しています。マイクロフォーサーズでは56mm相当画角と焦点距離も微妙ですので、デジタルでの活用には二の足を踏みますが、この先もしフイルムに戻る機会があったのなら間違いなく購入候補に挙がる一本でしょう。

 

 

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歪曲収差を小さくできるのは対象型設計最大の恩恵。デジタル補正の無い時代、歪みの少ない広角レンズはそれだけで存在価値がありました。真夏の晴天、コントラストの高い被写体でしたがハイライトからディープシャドーまできっちりと表現してくれました。

 

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赤色を派手目に発色するフイルムを使用。新緑との対比が映えます。フイルム時代は好みや目的に応じてフイルムを使い分けるのが楽しかったのですが、選択肢が年々限られて行きますね。乳剤のロットや現像所に拘っていた時代が懐かしいです。

 

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おなじみの都庁。田舎者なので、高層ビルを見るとつい見上げてしまいます。周辺光量落ちの目立つ条件ですが、被写体にマッチするとドラマチックな絵を作るための優秀なエフェクトになってくれます。

 

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小旅行で訪れた上高地、突然の夕立で雨宿り先を探している時の一枚。Gシリーズはレンズ数本を足しても小型のバックに収まる優秀なシステムでした。軽量で取り回しやすく、レンズが皆優秀だったので、「撮影」がメインでない旅行などにはとても重宝しました。

 

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5群と構成枚数が少ないことも高い逆光性能に貢献。極端な条件でなければゴーストやコントラストの低下などに悩むことはないでしょう。スキャン画像ではうまく伝わりませんが、「ヌケが良い」という言葉の意味を実感できる描写です。

 

Carl Zeiss Macro-Planar 100mm f2 ZF.2

  カメラ=デジタルカメラが一般化した昨今では、レンズの描写特性よりもセンサーの画素数やダイナミックレンジの広さ、またノイズ処理に代表される画像エンジンの特性といった面で画質を評価する場面が多くなった気がします。だからこそ、メーカーはこぞって画素数の向上や、常用感度の上昇、またダイナミックレンジの拡張や長秒時露光下のノイズ低減を謳い、新しいカメラこそが、最良の画質を手に入れる唯一の手段であるとばかりに我々に訴えかけてきます。

 また、非球面レンズや低分散ガラス等に代表される、かつてプレミアムレンズにのみに採用された技術・光学素材が廉価製品にも積極的に採用され、コンピューターシミュレーションを駆使した高度なレンズ設計技術が確立されている今日では、レンズ毎の物理的な性能差を論じる事はすでに意味をなさなくなってしまったのかもしれません。

 だからこそ、そんな時代に世界屈指の光学製品メーカーであるCarl-Zeissの名を冠するレンズが、Made in Japanの刻印と共に存在し続ける、その意味を自分なりに感じてみたい・・・。そんな欲求からなかなか逃れられないのです。京セラ・CONTAX時代のMacro-Planarと比べ、さらに一段分の明るさを手にした新時代の本レンズは、引き換えに最大撮影倍率を1/2倍へと落としていますが、Macro-Planarの看板を背負う性能をf2という明るさで実現するには、この仕様変更はやむを得ない事だったのでしょう。解放から合焦部の解像感はすさまじく、モニター上で拡大を続けても画像が破綻することはありません。高解像レンズの宿命か、アウトフォーカス部はやや硬さを残したものとなりますが、前後のボケの質がピタリと揃っているために、中望遠レンズ特有の緩やかな遠近感の圧縮と組み合わさり、画面内に豊かな立体感がひろがります。結果として画面全体に圧倒的なリアリティーが出現し、モニター上には撮影時の空気の匂いまでが漂うようです。質の高いオーディオ装置で音楽を聴く時、ときとしてスピーカーの存在が消える、といった表現をオーディオの世界では使いますが、このレンズが映し出す映像は、レンズそのものの存在を忘れさせてしまうかの様です。

 近い焦点距離である135mmにも、明るさを同じくf2とし、詩的で情緒的な描写を見せるApo-Sonnarが存在するZeissのラインナップですが、あまりに性格の違うこの2本で選択を迫られるとしたら、それは「ビアンカ・フローラ」問題に匹敵する男子永遠のテーマとなるかもしれません。  無論、この際の「重婚」は罪にはならないのでしょうが・・・・。

 

 

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夏の曇った午後、少し湿った空気に夕立の気配が漂います。朽ち行く車両・今を盛りと青葉を茂げらせる野草、それぞれの質感が見事に伝わります。中望遠レンズの画角は、丁度凝視した際の人間の視界に近く、気になった風景の一部を切り取る際に重宝します。

 

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靄の立ち込める避暑地。肌にまとわりつく湿気がモニター越しにも伝わってきませんか?もちろんフルサイズセンサーの懐の深さの恩恵もありますが、シャドー部の豊かな諧調がこの独特な空気感を生み出してくれます。

  

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コーティングも優秀です。明暗比のある被写体ですが、シャドー部への嫌な影響は感じられません。ハイライト捨て気味のシャドー部優先の露出ですが、ギリギリハイライトにも色が残ってくれました。

 

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コンタックス(京セラ)時代のマクロプラナーは解放f値は2.8でしたが、新レンズはf2と一段大きなボケが利用できます。合焦部のシャープネス・ボケ味のバランスも良く、意地の悪い被写体を選んでも、涼しい顔で応じてくれました。「マクロ」を名乗っていますが、当然風景やポートレートでも大活躍です。

 

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靄がかかっているとはいえ、そこそこ強烈な逆光です。しかしながらゴーストも感じられずエッジ部への嫌な色づきも見られません。本レンズの設計はまだフイルム主流の時代だったはずですが、高画素デジタルでも十二分に性能を発揮します。

 

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ボケ方によっては非常に見苦しくなる被写体ですが、ご覧の通り。とろけるようなボケとはいきませんが、前後のボケのバランスも良いので、安心して構図が組み立てられます。

 

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ボケ像に適度にエッジが残るので、ボケの中にも被写体の存在感は残ります。滲ませた水彩画のような繊細なトーンが日常を叙情的に記録してくれます。

 

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絞り解放での周辺光量低下も好ましい感じです。表現上必要不可欠な場合を除いてはカメラ設定の「周辺光量補正」を原則「切」で使うのが自分のスタイルですが、特にモノクロでは少し周辺が落ちてくれる位の方が好みですね。銀塩プリントの際は、良く周辺を焼き込んでいたのを思い出します。

 

 

プロフィール

フォトアルバム

世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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