Carl Zeiss Macro-Planar 100mm f2 ZF.2
カメラ=デジタルカメラが一般化した昨今では、レンズの描写特性よりもセンサーの画素数やダイナミックレンジの広さ、またノイズ処理に代表される画像エンジンの特性といった面で画質を評価する場面が多くなった気がします。だからこそ、メーカーはこぞって画素数の向上や、常用感度の上昇、またダイナミックレンジの拡張や長秒時露光下のノイズ低減を謳い、新しいカメラこそが、最良の画質を手に入れる唯一の手段であるとばかりに我々に訴えかけてきます。
また、非球面レンズや低分散ガラス等に代表される、かつてプレミアムレンズにのみに採用された技術・光学素材が廉価製品にも積極的に採用され、コンピューターシミュレーションを駆使した高度なレンズ設計技術が確立されている今日では、レンズ毎の物理的な性能差を論じる事はすでに意味をなさなくなってしまったのかもしれません。
だからこそ、そんな時代に世界屈指の光学製品メーカーであるCarl-Zeissの名を冠するレンズが、Made in Japanの刻印と共に存在し続ける、その意味を自分なりに感じてみたい・・・。そんな欲求からなかなか逃れられないのです。京セラ・CONTAX時代のMacro-Planarと比べ、さらに一段分の明るさを手にした新時代の本レンズは、引き換えに最大撮影倍率を1/2倍へと落としていますが、Macro-Planarの看板を背負う性能をf2という明るさで実現するには、この仕様変更はやむを得ない事だったのでしょう。解放から合焦部の解像感はすさまじく、モニター上で拡大を続けても画像が破綻することはありません。高解像レンズの宿命か、アウトフォーカス部はやや硬さを残したものとなりますが、前後のボケの質がピタリと揃っているために、中望遠レンズ特有の緩やかな遠近感の圧縮と組み合わさり、画面内に豊かな立体感がひろがります。結果として画面全体に圧倒的なリアリティーが出現し、モニター上には撮影時の空気の匂いまでが漂うようです。質の高いオーディオ装置で音楽を聴く時、ときとしてスピーカーの存在が消える、といった表現をオーディオの世界では使いますが、このレンズが映し出す映像は、レンズそのものの存在を忘れさせてしまうかの様です。
近い焦点距離である135mmにも、明るさを同じくf2とし、詩的で情緒的な描写を見せるApo-Sonnarが存在するZeissのラインナップですが、あまりに性格の違うこの2本で選択を迫られるとしたら、それは「ビアンカ・フローラ」問題に匹敵する男子永遠のテーマとなるかもしれません。 無論、この際の「重婚」は罪にはならないのでしょうが・・・・。
夏の曇った午後、少し湿った空気に夕立の気配が漂います。朽ち行く車両・今を盛りと青葉を茂げらせる野草、それぞれの質感が見事に伝わります。中望遠レンズの画角は、丁度凝視した際の人間の視界に近く、気になった風景の一部を切り取る際に重宝します。
靄の立ち込める避暑地。肌にまとわりつく湿気がモニター越しにも伝わってきませんか?もちろんフルサイズセンサーの懐の深さの恩恵もありますが、シャドー部の豊かな諧調がこの独特な空気感を生み出してくれます。
コーティングも優秀です。明暗比のある被写体ですが、シャドー部への嫌な影響は感じられません。ハイライト捨て気味のシャドー部優先の露出ですが、ギリギリハイライトにも色が残ってくれました。
コンタックス(京セラ)時代のマクロプラナーは解放f値は2.8でしたが、新レンズはf2と一段大きなボケが利用できます。合焦部のシャープネス・ボケ味のバランスも良く、意地の悪い被写体を選んでも、涼しい顔で応じてくれました。「マクロ」を名乗っていますが、当然風景やポートレートでも大活躍です。
靄がかかっているとはいえ、そこそこ強烈な逆光です。しかしながらゴーストも感じられずエッジ部への嫌な色づきも見られません。本レンズの設計はまだフイルム主流の時代だったはずですが、高画素デジタルでも十二分に性能を発揮します。
ボケ方によっては非常に見苦しくなる被写体ですが、ご覧の通り。とろけるようなボケとはいきませんが、前後のボケのバランスも良いので、安心して構図が組み立てられます。
ボケ像に適度にエッジが残るので、ボケの中にも被写体の存在感は残ります。滲ませた水彩画のような繊細なトーンが日常を叙情的に記録してくれます。
絞り解放での周辺光量低下も好ましい感じです。表現上必要不可欠な場合を除いてはカメラ設定の「周辺光量補正」を原則「切」で使うのが自分のスタイルですが、特にモノクロでは少し周辺が落ちてくれる位の方が好みですね。銀塩プリントの際は、良く周辺を焼き込んでいたのを思い出します。
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