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Leica DG Summilux 15mm f1.7 ASPH

 マイクロ4/3フォーマットのカメラにおいて、35ミリフルサイズでの焦点距離30mmの画角に相当する15mm。

 この画角に合致するレンズを記憶の中に探すと、ペンタックス製の30mm以外には思い当たる物がありません。また既にパナソニックからは、明るさこそ控え目ながら14mmという近似焦点距離のレンズが存在しているにも関わらず、この「微妙」な焦点距離のレンズをあえてLeicaブランドで製品化したのは何故なのでしょうか?

 さらにこのレンズは精密感の溢れる金属製鏡筒の採用と、これまでのマイクロ4/3用パナソニックレンズには存在しなかった絞り操作リングや、マクロレンズ同様のAF-MF切り替えスイッチを搭載するなど、とても多くの特徴を備えています。あえてコストをかけてまで、これらの仕掛けをこのレンズに詰め込んだ理由とはいったい何なのでしょうか?

 「馬には乗ってみよ」とばかりに本レンズを入手すると、極めて私的ではありますがその謎の答えが見えてきた気がします。

 現在のカメラは各種機能の自動化が進み、撮影時のオペレーションは、ボディーを操作する右手にほぼ集約されています。左手の役目といえば、ブレを防ぐためのホールディングバランスの調整と、画角操作のズーミングだけになります。私の様に、ズームレンズにあまり縁がない者にとっては、左手の仕事は無いに等しいと言えるでしょう。もっとも、その「事実」にすら実際は気付いていなかったのですから、慣れというのは恐ろしいものです。

 時にはAFを解除してピントリングを操作し、被写界深度をコントロールするために絞りを1クリック毎操作する。右指はシャッターチャンスをモノにするため、只々静かにレリーズボタン上でその時を待つ・・・・。過去、当たり前に繰り返してきたこの左手と右手の連携が、作画への姿勢をこれほど研ぎ澄していたことに、このレンズは改めて気付かせてくれたのかもしれません。

 特徴的なその画角も、1:1のフォーマットを多用する自分にとっては、3:2比率での私的標準レンズであるフルサイズ35mmに似た心地よさを持ち、自身の目の延長としてフレーミングが行えます。描写性能も特徴的で、恩着せがましいシャープネスや眩しささえ覚える高コントラストとは無縁の、オールドライカレンズを想起させる優しさを持っています。また解放F値1.7では、ボケを生かしにくい小型センサー機においても、美しいボケを堪能できます。

 当初疑問だらけに思えたこのレンズの存在が、フイルムからセンサーへ・光学ファインダーからEVFへと撮影機材の変化を経ても変わらない、写真に対する情熱を再び思い起こさせてくれる事になるとは、Leicaというブランドの製品にはやはり何かの魔法でもかかっているのでしょうか。

 

 

P1010974

デジタル専用レンズらしい高い逆光性能を持ちますので、この位の光線状態でしたら描写に一切の破綻は見せません。15mmという焦点距離は被写界深度がかなり深いレンズですから、いとも簡単にパンフォーカスの世界が手に入ります。

 

P1020141

適度にパースを発生させる準標準レンズ。大好きな画角のレンズですから日常スナップで大活躍します。小型・軽量ですのでカメラにつけたまま常に持ち歩くのがクセになります。

 

P1010964

ボケ味も、柔らかめで素直な印象。思い切り寄ってもドカンとボケ過ぎないのが15mmという焦点距離の持ち味でしょうか。

 

P1010960

シャープネスという視点で見れば、おそらくは標準ズーム系にはもっとシャープなレンズも存在します。だからこそ合焦部に微妙な丸さを残したこのレンズの存在理由があると感じます。木製ベンチの木のぬくもりが伝わってくるような優しい描写です。

 

P1000441

アウトフォーカス部の枝ですが、うるさくならず、いい塩梅にボケてくれました。

 

P1000524

モノクロの世界を見ながらモノクロを撮影する。一眼レフではできない芸当ですが、ミラーレスがメインの機材になって至極当たり前な行為になりました。だからと言って安易なモノクロ撮影はしないよう戒めないといけないですかね・・・。

 

P1018097

シッカリ落ちたシャドー・かるく飛び気味なハイライト・なだらかな中間調・・・。デジタルになってからはゾーンシステムなんて考えずに写真を撮るようになりましたが、こういうレンズを持ち出すと、モノクロ写真を学問として学んでいた頃にタイムスリップする瞬間があったりします。

 

P1010602

当たり前ですがこの被写体、撮影する度に壁の蔦の様子が変わっていて飽きません。初めてのカメラ・レンズを持って出かけると、ついつい撮影してしまいます。

 

P1020223

会議へ出席する際、早めに出立して寄り道をしたひまわり畑。まさかの濃霧からの降雨。あわてて逃げ込んだ木立に素敵な景色が広がっていました。

 

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世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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