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Leica Summarit M 50mm f1.5

 Zeiss社が発表したかの有名なSonnar50mm-f1.5に対抗すべく、バルナックライカ用の 当時もっとも明るいレンズとして1949年に誕生したのが、このズマリットです。もともとはシュナイダー製のクセノンを母体とし、以降M型ライカ用のSummilux50/1.4へとバトンを渡すまで、約10年の間ライカのハイスピード標準レンズの座をつとめました。

 黎明期のハイスピードレンズにありがちな開放時の甘い描写故、クセ玉の代表格とされ、評価する人間の主観によっては「悪玉」とも「銘玉」とも、その評価は極端で、中古相場も世相を反映して乱高下する非常に奇特なレンズです。

 また、製造時期により多数のバリエーションが存在し、各々の保存条件や製造時のばらつきによっても描写性能が変化し、購入にはそれなりの覚悟を必要とします。 私の入手した個体も、購入時は中玉のコーティングが完全に劣化し、それによるフレアの オンパレードで、劣化が原因と解るまでは「う~ん、これがクセ玉の描写か」と 誤った見解を持ったほどでした。

 しかしながら、大変優秀な技術を持っておられる某有名レンズ研究所にて、新たな命を吹き込まれたSummaritは当初の想像を遙かに超えた性能を発揮し、掛け替えのない一本へと復活したのです。

 開放~f2.8程度までは微妙なソフト感をのこした独特の柔らかな描写をし、絹のベールを被せたかのような艶のある美しい画像を形成。f4以降急激に増す先鋭度は8あたりから、仕上がった原版をルーペで覗く目が痛むほどのシャープネスを発揮します。 開放から破綻のない優秀な性能を誇るSummicronを秀才に例えるなら、特定の条件における、撮影者の予測の範疇を越えた描写性能を持つこのSummaritはまさに「天才」の名を冠するレンズなのかもしれません。

 

 

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ズマリットの所有欲を増す危険な描写。全体的にハロが目立つ独特なソフト描写になります。しかし、ルーペでポジを拡大するとしっかりと合焦部分は細部まで解像されています。ボケ像はややざわついた感じもありますが、この年代のハイスピードレンズとしてはまとまりの良い描写と感じます。

 

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解放ではややソフト感が強いながらも、f4辺りから柔らかさと高いシャープネスが同居する独特の描写となります。再研磨+再コーティングのおかげでこの程度の光源ならばフレア・ゴーストの発生は見られません。

 


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屋外でかなり強い太陽の反射をいれましたが、特に問題は無いようです。絞り込むと非常にシャープで繊細な描写となります。解放描写とのギャップが何とも言えず、オールドレンズならではの楽しみとなります。

 

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M2以降のM型ライカで使用すると、50ミリのブライトフレームはフレームアウト部も確認しながらの撮影となります。M型ライカがスナップ撮影に好適とされる所以ともなります。同一被写体で同時に確認する術がないのですが、やはり、一眼レフとは一味違うフレーミングになるなぁ。と、感じています。

 

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絞り込んだ時の、非常に高いシャープネスを実感できる一枚。画面全体に写る芝生の一本一本が綺麗に解像されています。逆光気味ですが、レンズフードの効果もあってコントラストの高い映像となりました。ちなみに純正フード「XOONS」はチリメン塗装された角形の美しい造形で、単体で一万円以上の値が付く人気アイテムの一つです。

 

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35mmの画角が馴染んでいる自分にとって、50mmの画角はちょっとした望遠レンズ。気になった被写体を少しだけクローズアップする感覚は、M型ライカのブライトフレーム越しだとさらに強調されます。

 

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バブル期に賑わったリゾート施設。現在では民家の倉庫となっていました。写真の「記録」という特性だけを考えればスマートフォンの存在は偉大ですが、自分がいまだカメラを手放していないのは、きっと写真の「それ以外の何か」に囚われているからなのでしょう。


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世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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