For Nikon Digital SLR Feed

Carl Zeiss Apo-Sonnar 135mm f2 ZF.2

 カメラの歴史の中で、これほどまでにクラッシックレンズに注目が集まった事があったでしょうか?マイクロフォーサーズのミラーレス一眼が登場してから本格化した、マウントアダプターを介しオールドレンズを用いる手法は、センサーをフルサイズ化したモデルの投入を受け、一つの撮影スタイルとして完全に市民権を得たようです。

 オールドレンズによる撮影は、フイルム時代のレンズ資産をデジタルカメラで上手く生かすための緊急回避策でもありますが、一方で、高性能でありながらも何処か画一的で、無個性的な現代のレンズがもたらす描写へのアンチ・テーゼといった側面も持ち合わせます。事実、高性能なガラス素材や、確立された設計理論、そしてコンピューターを利用した高度なシミュレーションを用いる術のなかった時代のレンズは、現在のレンズと比べはるかに残存収差が多く、その収差が結像に大きな影響を与えた個性的な描写を見せるものが少なくありません。設計者の腕は、これらの収差を少なくすることはもちろんの事、どの収差をどれ位のバランスで残すのか?といったところで発揮されていたのでしょう。対峙する際に緊張を求められるような、高精細・高密度な映像に囲まれている現代においては、旧世代のレンズ描写にある種の安堵感を求めてしまうのも、自然な流れなのでしょう。

 それでは、レンズの高性能化とはいったい何なのでしょうか?フイルム時代に比べ、2000万を軽く超えた撮像素子が投入されるようになった昨今では、レンズの結像性能にはより高いレベルが必要だとされています。残存収差を極めて低いレベルで抑えこみ、高解像・高コントラストな結像性能を与えられたレンズは、これからも、ただ引き換えに個性を失くして行くだけなのでしょうか?

 そんな心配はどうやら杞憂にすぎませんでした。そう確信させたのは、ドイツ光学メーカーの雄Carl Zeissが放つ最新設計のレンズ群です。中でも後発となる本135ミリは、残存色収差抑制への必要性から、伝統の「Planar」ではなく新たに「Apo-Sonnar」の冠を与えられ、その高性能ぶりは解放f値から遺憾なく発揮されます。135ミリともなれば、解放付近での被写界深度は極わずかしかありません。しかし、前後の非合焦部へのつながりがきわめて自然であるために、画面に不必要な緊張感が生まれません。10枚以上のガラスを通ってきたとは思えないほどの透明感あふれる描写は、ファインダーでも存分に堪能でき、センサーの性能を遥かに凌駕するであろう分解能の高さは、まるで細密描写された水彩画のごとく繊細な画像を形成します。ハイライトからディープシャドーまでの諧調も豊かで、HDR合成を見せられているかのような錯覚に陥ることさえあるでしょう。

 結像性能に対し一切の妥協を許さないとされるLeicaやZeissの哲学は、デジタル時代においても決して左右されることなく、個性とも受け取れる収差を徹底して排除することで、逆説的に究極の個性を手に入れたということになるのでしょうか。

 ただし、価格も相当に究極的ではあるのですが・・・・

 

 

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傷んで割れ目の見え始めた車両の塗装面。西日が射しこみ何とも言えない雰囲気が漂います。凹凸を見せる塗装面の質感や合焦している識別文字部のシャープネスが見事です。何という事もない日常の一コマを印象的に切り取ってくれます。単純明快、良いレンズです。

 

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このくらいの焦点距離になると、望遠レンズ特有の圧縮効果が表れてきます。旧国鉄の足尾線(現:わたらせ渓谷鉄道)の終着駅「間藤」から少し歩いたところにある有名なタンク。以前に訪れた時と比べ随分と腐食が進んでいるように感じます。

 

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京セラ時代のPlanar135mmにも感じた事なのですが、本レンズは他のZeissレンズと比べ、どことなく発色があっさりとして水彩画の様な印象を受けます。撮影地の足尾では、かつて銅で栄えた町の歴史を閉山後の現在でも所々で目にすることができます。

 

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建物の変形は決してレンズの歪曲収差ではありません。この物件近くの古い木造の建物は3.11の震災で大きく破損したために取り壊されてしまったようです。銅山時代の遺構の多くは、老朽化が進み、近年取り壊されたり整地化されて別の目的に使用されたりしています。

 

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足尾駅構内に保存されている気動車の床下部品。解放時の描写は本レンズでしか味わえない独特の「味」を醸し出します。比較的明るい望遠ズームがあると、出番の少ない135mmではありますが、このレンズでしか味わえない描写もあったりするので、困ったものです。

 

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被写体まで距離がとれる135mm。お昼寝を邪魔することなくこっそり一枚。解放付近の被写界深度は非常に浅くなります。幼い猫の毛質とマッチした柔らかなボケ味も本レンズの魅力の一つ。前・後ともに癖がなく美しいボケ像を作ります。

 

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遠景といっても135mmクラスとなればそれなりに被写界深度は浅くなります。合焦部、ボケ像ともに、レンズの繊細さが際立ちます。

 

Carl Zeiss Macro-Planar 100mm f2 ZF.2

  カメラ=デジタルカメラが一般化した昨今では、レンズの描写特性よりもセンサーの画素数やダイナミックレンジの広さ、またノイズ処理に代表される画像エンジンの特性といった面で画質を評価する場面が多くなった気がします。だからこそ、メーカーはこぞって画素数の向上や、常用感度の上昇、またダイナミックレンジの拡張や長秒時露光下のノイズ低減を謳い、新しいカメラこそが、最良の画質を手に入れる唯一の手段であるとばかりに我々に訴えかけてきます。

 また、非球面レンズや低分散ガラス等に代表される、かつてプレミアムレンズにのみに採用された技術・光学素材が廉価製品にも積極的に採用され、コンピューターシミュレーションを駆使した高度なレンズ設計技術が確立されている今日では、レンズ毎の物理的な性能差を論じる事はすでに意味をなさなくなってしまったのかもしれません。

 だからこそ、そんな時代に世界屈指の光学製品メーカーであるCarl-Zeissの名を冠するレンズが、Made in Japanの刻印と共に存在し続ける、その意味を自分なりに感じてみたい・・・。そんな欲求からなかなか逃れられないのです。京セラ・CONTAX時代のMacro-Planarと比べ、さらに一段分の明るさを手にした新時代の本レンズは、引き換えに最大撮影倍率を1/2倍へと落としていますが、Macro-Planarの看板を背負う性能をf2という明るさで実現するには、この仕様変更はやむを得ない事だったのでしょう。解放から合焦部の解像感はすさまじく、モニター上で拡大を続けても画像が破綻することはありません。高解像レンズの宿命か、アウトフォーカス部はやや硬さを残したものとなりますが、前後のボケの質がピタリと揃っているために、中望遠レンズ特有の緩やかな遠近感の圧縮と組み合わさり、画面内に豊かな立体感がひろがります。結果として画面全体に圧倒的なリアリティーが出現し、モニター上には撮影時の空気の匂いまでが漂うようです。質の高いオーディオ装置で音楽を聴く時、ときとしてスピーカーの存在が消える、といった表現をオーディオの世界では使いますが、このレンズが映し出す映像は、レンズそのものの存在を忘れさせてしまうかの様です。

 近い焦点距離である135mmにも、明るさを同じくf2とし、詩的で情緒的な描写を見せるApo-Sonnarが存在するZeissのラインナップですが、あまりに性格の違うこの2本で選択を迫られるとしたら、それは「ビアンカ・フローラ」問題に匹敵する男子永遠のテーマとなるかもしれません。  無論、この際の「重婚」は罪にはならないのでしょうが・・・・。

 

 

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夏の曇った午後、少し湿った空気に夕立の気配が漂います。朽ち行く車両・今を盛りと青葉を茂げらせる野草、それぞれの質感が見事に伝わります。中望遠レンズの画角は、丁度凝視した際の人間の視界に近く、気になった風景の一部を切り取る際に重宝します。

 

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靄の立ち込める避暑地。肌にまとわりつく湿気がモニター越しにも伝わってきませんか?もちろんフルサイズセンサーの懐の深さの恩恵もありますが、シャドー部の豊かな諧調がこの独特な空気感を生み出してくれます。

  

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コーティングも優秀です。明暗比のある被写体ですが、シャドー部への嫌な影響は感じられません。ハイライト捨て気味のシャドー部優先の露出ですが、ギリギリハイライトにも色が残ってくれました。

 

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コンタックス(京セラ)時代のマクロプラナーは解放f値は2.8でしたが、新レンズはf2と一段大きなボケが利用できます。合焦部のシャープネス・ボケ味のバランスも良く、意地の悪い被写体を選んでも、涼しい顔で応じてくれました。「マクロ」を名乗っていますが、当然風景やポートレートでも大活躍です。

 

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靄がかかっているとはいえ、そこそこ強烈な逆光です。しかしながらゴーストも感じられずエッジ部への嫌な色づきも見られません。本レンズの設計はまだフイルム主流の時代だったはずですが、高画素デジタルでも十二分に性能を発揮します。

 

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ボケ方によっては非常に見苦しくなる被写体ですが、ご覧の通り。とろけるようなボケとはいきませんが、前後のボケのバランスも良いので、安心して構図が組み立てられます。

 

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ボケ像に適度にエッジが残るので、ボケの中にも被写体の存在感は残ります。滲ませた水彩画のような繊細なトーンが日常を叙情的に記録してくれます。

 

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絞り解放での周辺光量低下も好ましい感じです。表現上必要不可欠な場合を除いてはカメラ設定の「周辺光量補正」を原則「切」で使うのが自分のスタイルですが、特にモノクロでは少し周辺が落ちてくれる位の方が好みですね。銀塩プリントの際は、良く周辺を焼き込んでいたのを思い出します。

 

 

Carl Zeiss Distagon 35mm f2 ZF.2

 写真の世界においては、「標準レンズ」という言葉に含まれる「標準」は絶対的な指標にならず、とても「曖昧」だと言えます。野鳥や飛行機などを撮影する事の多いカメラマンからすれば、300mmクラスかそれ以上の焦点距離を持つレンズが「標準」となるでしょうし、オーロラなどをメインの被写体とする場合は、20mm以下の超広角レンズや180度以上の画角を持つ魚眼レンズが「標準」だとするフォトグラファーもいるでしょう。現在では28-300mmなどといった高倍率のズームレンズで写真を始める方も少なくないでしょうし、そうなると、「標準」を考える事にはすでに意味は無いのかもしれません。

 諸説はありますが、35ミリサイズのフイルムを利用し最初に成功を収めた「ライカ」に最初に取り付けられていた焦点距離50mmのレンズは、画角・被写体との距離も扱いやすく、その描写に遠近感の誇張・圧縮が少なく、写真特有の癖が出にくい点、さらに当時の技術でも比較的明るい解放f値を持った製品を開発し易かった事などもあり、その後も多くの製品に採用され、長きに渡って50mmは一般的「標準レンズ」として君臨しました。私自身も写真に興味を持った幼少期、父から渡されたニコンには50mmが取り付けてあり、それを「標準」として写真人生をスタートさせました。

 写真を学ぶ大学に入り課題をこなしながら、手持ちに幾つかのレンズが揃うようになった頃、目的を持たずに出かける際にカメラに付いているのは50mmではなく、35mmのレンズであることに気が付きました。少しだけ広い画角、少しだけ強調されるパース、少しだけ広い被写界深度。これらが自分の好む被写体や撮影スタイルにマッチしたのでしょう。以来、新しいカメラのシステムを考える時には、必ず35ミリフルサイズにおける35mmの画角を起点として考えるようになったのです。

 そして、Nikon Dfの購入に至った際、標準レンズの候補として真っ先に思い立ったのが本レンズだったのです。純正品にも35mmは存在していましたが、最新のNikkorはプラスチック感の目立つ外装とマニュアルフォーカス時の操作感がどうしてもなじめず、なによりZeissのレンズを絶対的に信頼していたこともあり、Nikonフルサイズシステムの「標準レンズ」として本レンズを購入しました。非球面レンズや贅沢な光学系を惜しみなく投入した解放f1.4のDistagonも存在するZeissの35mmですが、解放f2の本レンズは比較的に小型で取り回ししやすく、フィルター径も58mmと、小型の部類に入ります。マニュアル専用設計のため、抜群のヘリコイドの操作感が余裕をもたせた回転角も手伝って、非常に気持ちの良いピント合わせが行えます。写真を撮らない時には、このヘリコイドを肴に一杯やってもいいと思うほどです。

 近代のレンズらしく解像感が非常に高く、発色も非常にクリアで心地よく、いかなる条件でも破綻をみせないその描写はまさに「標準」に相応しく、自分の視覚の延長として思うがままに被写体を切り取ります。そして何よりZeissらしさをのぞかせるのが、美しく残された収差が見せる魔法の解放描写です。ヨーロッパに起源をもつレンズではよく引き合いに出される「空気が写る」という表現。無色透明ではあっても、被写体との間に確かに存在するその物体を、瑞々しく記録するドイツのエスプリは、日本製造となった最新のレンズにも確かに残っているのでしょう。すでに最新ラインのMilvusシリーズへとバトンを渡してはいますが、外装デザインをどうにも好きになれない自分は、やはりこの世代のZeissを使い続けていくのでしょう。

  

 

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自転車を模した金属製のカゴに盛られたジャックオーランタン。解放では浅くなる被写界深度ですが、35㎜ということもあり、被写体の形はしっかり残ります。微妙な周辺光量の落ち方が合焦部へ視点を運んでくれます。この独特の空気感が何ともいえない味だと思いませんか?

 

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この、すこし出始める「パース」が35mmが好きな理由。「写真」っぽさって大事だと思います。

 

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西日に照らされた壁面のオブジェ。空気感・立体感・透明感。少し絞ってあげると、欠点という欠点がなくなる優秀なレンズ。撮り手の実力が嫌でも試されますね。

 

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天候が悪くても、非常にクリアな発色。傷んだ塗装の表面質感も非常に良く描写されます。f値も明るめなので、薄暗い状況でも高ISOに頼らずに済むのが単焦点レンズの強みですよね。

 

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モノクロに変換しても被写体の質感は見事に再現。銀塩フイルム・印画紙で撮影する機会はほぼなくなってしまいましたが、暗室作業には今でも思い入れがありますね。

 

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露出をすこし切り詰めるとZeissの本領発揮です。鳥居の円柱の質感、上々です。朱の発色も効いてます。

 


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マクロ域での質感描写も見事です。ボケも美しく、適度に被写体の情報を残してくれる。この辺が35mmを使う醍醐味ではないでしょうか。

 

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夕刻、かなり強めの西日が差し込む列車の側面。とても階調が豊富で、ハイライトからシャドーまでしっかり写しこんでくれます。

 

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一見、モノクロの画像処理かと見まがう被写体。保護シートを掛けられたディーゼル機関車です。金属の車体・アルミシート・ビニール製の虎縄。素材の違いが手に取るように分かります。絞り込んだ本レンズの描写には一切の曖昧さがありませんね。

 

プロフィール

フォトアルバム

世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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