SIGMA 50mm F1.4 DG HSM | Art (Sony-A)

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 自動車用のエンジンオイルだったりすると、あえて「非純正」を使用することに一つのステータスを感じるといった場面もあったりしますが、カメラ+レンズの使用時は「純正」同士の組み合わせを至上とするという考え方が少し前までは一般的だったと記憶しています。マウントアダプターの利用が広まった昨今では、メーカーを跨いだカメラ+レンズの利用も選択肢の一つとして積極的に活用される様になってはいますが、フイルムカメラ全盛の頃は、カメラボディーには同じカメラメーカー製のレンズを装着するのが言わば定石だったのです。少し汚い言葉を使うならば、メーカー純正ではない、いわゆる社外レンズにはどこか「二流品」のイメージさえ付き纏っていたものなのです。

 機能の互換性や精度・性能の担保といった面を考えれば、純正レンズを選択する事が無難となるのは自明の理。社外レンズには純正レンズと比べた価格の安さや、ズーム比・明るさを欲張るといった分かり易い購入メリットを打ち出すことが必須となり、結果として描写性能面では不利な立場に置かれていたのも頷ける話です。加えて、外装パーツ・仕上げ等といった部分にはコストダウンの影響が色濃く残る製品も多く、それらが総じて社外レンズへのマイナスイメージ定着を助長してしまったのでしょう。さりとて財布の紐が自由にならなかった高校生時代の自身(今もですけど)の様に、廉価な社外レンズには随分とお世話になり、生涯会津方面には足を向けて寝られなくなってしまったと言う元写真少年も決して少なくはない、これもまた本当のところなのでしょう。

  だからこそ、なのです。本レンズの土台となった SIGMA 50mm f1.4 EX DG HSMが発売された当初は、自分の眼と耳を相当に疑いました。なぜなら発表された当時(2008年頃)は、すでにズームレンズが標準レンズの大本命だったとはいえ、フイルム時代には標準レンズの代表格でもあった50mmの単焦点レンズを社外レンズメーカーが発売したとして、いったいだれが食指を伸ばすのか想像も及ばなかったのです。さらに、77mmというf1.4クラスの50mm単焦点レンズではお目にかかった事がない巨大なフィルター径、長年一種のセオリーでもあった6群7枚のダブルガウスタイプとは大きく異なる光学系、当時のカメラメーカー純正の同クラスレンズと肩を並べる税別60,000円という価格設定、その全てが、それまでの私が持つ「社外レンズ」へのイメージとは随分とかけ離れたものだったのです。

 今になって思うのは、それがSIGMAの実に巧妙な戦略であったのだろうという事です。誰もが知る「標準レンズ」にあえて挑戦し、高い性能をアピールした事によって、同社が純正レンズに対抗・凌駕しうる製品を製造する技術力を持つと言う事実が、この一本で実に痛快に証明されたのです。想定外に巨大な口径を有した余裕からか、画面端まで絞り解放から十分以上の解像性能を見せ、周辺光量の低下や口径食といったハイスピードレンズに付きものの欠点も極僅かに感じられる程度です。これだけの高い解像度の大口径レンズですから、高輝度被写体のボケ像に僅かエッジを見せる場面もありますが、嫌味と感じる事は希でしょう。基本性能が異常なまでに高く、レンズの「味」などといった誤魔化しが存在しないその映像は、撮影者にとっての試金石ともなりえるでしょう。

 そして、それらをさらに一段と高めた本レンズは、自ら「圧倒的な描写性能。表現者の為のレンズ。」を標榜する同社「Art」シリーズに属する一本。その描写に引けを取らない美しい外観の仕上げと、金属パーツを多用した905g(Lマウント公表値)という規格外の重量で、これまた「社外レンズ」のイメージを大きく変えた「新世代標準レンズ」を具現化しました。この「描写」を手にするには111,833円(2024年9月時点のメーカー直販サイト価格)が必要との事。Artシリーズレンズの登場は、社外レンズ=廉価品、この図式も完全に過去の物としてしまったのです。その描写性能を求めて「非純正」を指名買い、彼の日の自分には全く想像もつかなかった事です。

 

 

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フイルム時代から数々の50mmf1.4を使用した経験から、解放での描写には単純にもっと「エモい」描写を想像していました。しかし、それはまんまと(良い方向で)裏切られます。画面周辺での減光や解像感の低下、合焦部にも生じるハロや画面全体のコントラストの落ち込みなど、いわゆる「クセ」「味」とも評される描写上の特徴はごく僅か。歪曲収差もほぼ感じられず、極めて端正な「映像」を提供してくれます。絞り開放の描写ですから、もちろん合焦部以外には「ボケ像」が存在していますが、絞り込んで撮影することが多い「大判写真」に近い印象を受けるのが何とも不思議。

 

  

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変わり易い夏の高原の天候。遠雷の音とにわか雨で急遽撮影を中断。慌てて車内に逃げ帰る途中での1枚です。収差の少ない物理的性能が高いレンズは、残された収差が生み出す奇跡を作画に生かしにくいという面があるかもしれませんが、だからと言って「面白みに欠ける」とはならない事を本レンズが証明してくれるかもしれません。「Art」とは、なかなかに心憎いネーミングを冠されたものです。

 

 

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何者かが住んでいそうな木のうろ。開放から十分に高い解像度を誇る本レンズではありますが、少し絞ったf5.6辺りでは、被写界深度に余裕が出る事で合焦部の映像に説得力が増します。樹木の表皮や陽光を照り返す葉の質感は一種不気味さを感じるほどで、縮小画像で存分にお伝え出来ないのが心残りです。

 


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50mmとは言え、解放絞り付近で被写体に接近すれば大胆にボケを利用した作画も可能です。ボケ像の癖が少なく、画面周辺まで解像感の高い本レンズであれば、近接描写であっても大胆に開放絞りが利用できるのは大きな利点。被写体が小さく分かりづらいのですが、合焦部のトンボの翅、拡大するとそこに存在する細かな網目模様(翅脈と言うそうです)が元画像ではクッキリと解像されていて唖然としました。

 

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詳しく見て行くと、後ボケ像には若干のエッジがみられますが、嫌味を感じるほどではないでしょう。本レンズ、SONY(MINOLTA)一眼レフ用のAマウント仕様を安価で見つけたのが入手のきっかけですが、結局メーカーの有料サービスによるマウント変更でEマウント化してしまいました。現行品はすでにミラーレス専用に特化したDG-DNタイプへと移行しているため、ちょっとしたレアアイテム誕生という訳です。作動時のノイズ低下やAF作動の俊敏化など、Eマウント化の費用対効果が思いの他高い事を実感。有料とは言えレンズメーカーにしかできないサービス体制に関心しました。

 

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実際に周辺減光はどの程度あるのか白壁の被写体で確認。画面左側に窓があるシチュエーションでの試写です。開放でもここまで周辺減光が少ないのは見事。映像のアクセントとしてこの程度の減光は好印象に繋がるでしょうか。画面周辺部の解像度の高さや、ほぼ感じられない歪曲収差も人工物の撮影ではさらに際立ちます。合焦部(椅子の背もたれ)のテクスチャーは手触りが感じられるほど細密に描写されており、その性能の高さ故なんだか持ち出すこちらも緊張感を強いられそうです。

 
 
 

TTArtisan (銘匠光学)M 35mm f1.4 ASPH

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 ミラーレス一眼・パナソニックG1が登場した当初、これほどのハイペースで「ミラーレス一眼」が市場を席捲してしまう事を予想できた方は恐らくは少数派だったのではないでしょうか。登場時その恩恵はボディの小型化やシステム全体での軽量化が中心と捉えられ、その後各メーカーから相次いで投入されたのは、入門機やサブ機といった立ち位置の機種が殆どでしたから無理もない事です。しかし、ミラー駆動の制約を解かれた事による連写スピードの暴力的なまでの向上や高精細動画撮影への対応、ライブビュー技術を駆使した撮影環境の革新、被写体認識技術の向上とそれに伴うAF機能の飛躍的な進化など、現在のデジタル一眼進歩の原動力となった技術の多くが,ミラーレス化を抜きに実現できなかった事は疑う余地も無く、今となってはミラーレス化の必然性を多くの人が感じているに違いありません。

 さて、そういったカメラの革新とも言えるミラーレス化により、光学系にクイックリターンミラーが不要となったことで、撮像素子とマウント面の距離(フランジバック)を大幅に縮める事が可能となりました。これによりレンズ設計の自由度が上がり、描写性能の向上やレンズの小型化といったメリットが生まれた訳ですが、同時にマウントアダプター併用によるメーカーやモデル、製造年代を跨いだカメラ・レンズの相互利用範囲が爆発的に増えるという副産物をもたらしました。レンズを絞り込んだ状態でもEVFや背面液晶などの画面が暗くならない(電気的に増幅していますので、限度はありますが)ミラーレス機では、レンズ側に解放測光の為の連動機構や電気的な通信機構を持たないレンズであっても、実絞りを優先したAEや、マニュアルでのピント調整による撮影が十分可能になります。結果として、シンプルな機構しか持たない旧世代のレンズ(いわゆるオールドレンズなど)が簡単に最新機種で活用できるため、どちらかと言えばマニアックな撮影方法であったマウントアダプターを使った撮影を、オールドレンズブームという追い風もあって、表現手法の一つとして完全に定着させるに至ったのです。

 これらを背景として、近年急速にその存在が認知されるようになってきたのが、「アジアンレンズ」「中華レンズ」などとも言われる、アジア・中国圏のメーカーによって生産・販売されるレンズ群です。レンズ自体にはピントと絞りの調節機構だけが備わっていれば良く、生産コストが嵩む複雑な絞りの連動開閉機構や電子的な通信機構を持たない「シンプル」なレンズであっても、市場で十分に競争力を発揮できる環境が整い、新興メーカーにとっての絶好の商機となったようです。当初は大手ECサイトを中心に、安価でありつつも挑戦的な解放f値と焦点距離を持った実絞りのマニュアルフォーカス単焦点のレンズや、デザイン含めて日本製品をまるパクリした上手に模倣したような製品が注目されていましたが、昨今では性能面でも注目を浴びるような製品や、超広角・超望遠・シフトレンズといったメーカー純正ではなかなか手に届きにくいレンズが比較的安価で入手できる事もあって年々認知度を上げています。

 現行のLeicaMマウントレンズを手本としたことがひしひしと伝わる本レンズも、金属製鏡筒の仕上げや、ピントリング、絞り(完全な等間隔ではありませんが)の操作感も非常にレベルが高く、描写性能にも十分以上に満足が行きます。むしろ画一的に高性能となった現代のレンズと比べ、その独特な「味」は、好印象と受け取れる場面は少なくないのです。他社製ではありますが「周」ブランドによる一連のオールドライカレンズ復刻品に至っては、その外観だけでなく「描写」まで本家と見紛うほどで、もはや技術力に疑問を持つのはナンセンスでしょう。デジタルデバイスにおいてすでに世界屈指の技術を持つ強大な隣国が、本格的にデジタルカメラ市場に参戦する、そんな青写真すら見えて来そうです。我々ユーザーが安価な高性能レンズが手に入る・・・そんな甘い誘惑に惑わされているうちに、とんでもない逆転劇に巻き込まれないよう、自国のカメラメーカにはしっかりと兜の緒を握りつづけていだきたいと思ったりもする今日この頃なのです。

 

 

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なかなかに良い雰囲気の映像となりました。初代Summiluxは、解放付近ですと画面のコントラストはかなり低く時折手を焼きますが、本レンズは解放からかなりしっかりとしたコントラストで描きます。合焦部である看板の注意書きと木洩れ日のアウトフォーカス部分によって立体感が良い感じで際立ちます。

 

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開放f1.4です。ハイライトが滲む傾向はありますが合焦面の解像度(画面中央やや下あたりでしょうか)は高く、画面全体のコントラストは十分に高いのが分かります。四隅の像はやや崩れる感じが見受けられ、後ボケはチリチリとする癖があるようです。

  

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ご覧の様に条件によって周辺の光量がバシッと落ち込みます。高輝度部は若干フレアっぽい印象もありますが、解像度は十分に高いと言えます。昭和の物流を支えた電気機関車の少しくたびれた躯体と、レンズ描写の持つ癖が上手くマッチングしているように感じます。画面全域にわたって光学的性能を高めた国産メーカーの最新レンズではなかなか見られない、いわゆるオールドレンズらしい味わいを楽しめるのではないでしょうか。

 

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開放絞りのふわっとした感じはf2.8あたりからすっかり消滅して、被写界深度の広がりを感じるf5.6あたりでは画面全体からとてもシャープな印象が伝わってきます。四隅で像がやや崩れる感じは僅かに残っていますが、スナップやポートレートでは問題になることは希でしょう。

 

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緻密ですが、カリカリとしない優しい描写です。Summiluxと比べるのであれば、初代よりは近代的な描写、非球面化された最新型と比べれば良い意味での緩い描写という事になるでしょうか。モデルチェンジが早く比較的短命に終わる商品が多いのもアジアンレンズの特徴の一つですから、Summiluxの約1/20の価格で入手できるうちにお迎えできたのはラッキーでした。

 

 

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被写体はデゴイチの相性で有名なSLの「D51」。本来重厚な印象が強い被写体ですが、絞ると繊細な描写を見せるレンズなので、精密模型を見ているようなイメージになりました。なんとなく画面上部のコントラストが低いのは、ハレ切りの手間を怠った私の落ち度が原因です。凝った仕上げの金属製角形フードが純正で付属していますが、21mmレンズ用?と感じるほどの厚さ(薄さ)しか無いのでレンズ保護や装飾面以外でのメリットはあまりなさそうな印象ですね。逆光・迷光が悪さをしそうな場面ではちゃんとハレ切りしたほうがよさそうです。

 

 

Leica Summilux M 35mm f1.4 Part2

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 35mmという焦点距離のレンズを必要とした最初の動機は、描写がどうとか、遠近感がどうとか、被写界深度がどうとかといった創作面に必要な目的ではなく、当時母が営むピアノ教室の発表会で集合写真を撮影する為に、手持ちの50mmでは単純に画角が狭かったという極めて物理的な理由による物でした。しかも、お年玉を携え購入に向かったカメラ店の中古コーナーで、購入候補のAi Nikkor 35mm f2.8の横にほぼ同価格で並んでいたAi Zoom Nikkor 35-70mm f3.3-4.5sに目を奪われ、「半絞りの暗さに目をつむれば、ズームの方が圧倒的に便利じゃん」という、今の自分から思えば全くあり得ない理由で購入に至ってしまったたという、ブログでネタとして消化(昇華)できなければ、墓場まで持って行きたくなる様な正に黒歴史エピソードのオマケ付なのです。やがて、高校の写真部に入って本格的に写真にのめり込むようになり、被写界深度や画角を意識して撮影をするようになると、どちらかと言えばそれらの違いをより強く感じる事が出来る超広角や望遠レンズの方に興味が向かってしまい、自ずとその描写に強烈な個性を持たない35mmレンズとの付き合いは疎遠になってしまいました。

 そして、35mmレンズとの付き合い方を一変させる出来事になるのが、このSummilux 35mmとの邂逅なのです。写真学生の時分、家計を圧迫する感材・薬品・機材費用の工面をするべくアルバイトで通ったカメラ店(現職場ですが・・・)の店頭に、Leica M6とともに陳列されていたこの極めて小さなレンズに目が留まると、数日間のレンタル後にM6と新品のセットで即購入の意思を固めてしまったほどですから、当時のインパクトは相当なものだったのだろうと振り返ります。加えて言うのであれば、1990年頃はLeica製品も今日の様なプレミア価格ではなく、為替相場も空前の円高基調でしたから、並行輸入品であれば、現在のLeica中古相場の半値以下で新品が購入できるアイテムがざらに存在し、学生にとってはこれ以上ないLeica購入の好機だったのでしょう。

 現像の水洗浴から上がった段階で、ネガ上でもはっきりと認識できる、そのあまりに特徴的な描写は、自身のレンズ評価の方向性をも大きく変えて行きました。それまで「良い・悪い」という数値的な指標を中心に評価していたレンズ描写を、「味」や「雰囲気」といったような、言わばリリカルな面での判断に重きを置いて判断するようになっていったのです。もしも、あの日出会ったレンズがSummicronの35mmであったなら、ひょっとして少し違った人生を歩んでいたのかもしれない、そんな気さえもするのです。

 手持ちの資料によれば、本レンズの発表は1960年のフォトキナ(発売は1961年)とあります。以降、細かな仕様変更を受けつつも、光学系はそのままに1990年代まで製造が続けられます。他のライカレンズが光学系を含んだモデルチェンジを繰り返す中、非球面レンズを導入した後継レンズの発売まで長期に渡り製造を続けられたのは、f1.4という明るさの広角レンズの設計の難しさもあったのでしょうが、かえってM3発売当時のライカレンズのエッセンスを新品で味わえるある種孤高の存在ともなりました。デジタルカメラ全盛の時代、コンピューターによるレンズ設計が当たり前となり、物理的な性能向上の為に特殊な光学素材や非球面を利用した光学系を持ったレンズが市場を席捲する中、2022年に復刻盤として本レンズがオリジナルの光学系を採用して突如再販された事は、物理的性能だけがレンズ描写の優劣を決定付けない事を証明していると言えるのかもしれません。(ただし、その価格は学生当時私が購入したレンズ4本ほどに高騰してしまいましたが)

 Leicaのデジタルカメラは、旧来のライカレンズでも最大限その描写特性を損なわない様なセンサーの設計とチューニングを施されていると聞きます。手持ちのα7RⅣでの試写では、デジタルライカでの描写と異なった結果になっているのかもしれませんが、せっかく数十年ぶりに手元に届いたSummilux(勿論借用!)です、「馬には乗って見よ、レンズは撮ってみよ」の言葉に沿って、ほんの少しだけ紹介させていただきたく思うのです。

 

 

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「白昼夢」そんな言葉もしっくりくるでしょうか。最新のデジタルカメラから得られた画像とは俄かには信じがたい映像となりました。ハイライト部の強烈なハレーション、鋭く落ち込む周辺光量とは裏腹な合焦部の高い先鋭度が本レンズ絞り解放での独特な味を生み出します。安易に「エモい」などと簡単に言って欲しくないのは、このレンズの中古価格が50万円を超えるから・・・・では決してないのです。

  

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まだ体が暑さに慣れていない6月初旬、眩暈を覚えるような暑さで映像が歪んでいるのでしょうか。タイムスリップをして昭和初期のモノクロ映画のシーンを見せられているような、そんな感覚にも陥ります。

 

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日陰に入り、強い光源が無くなると画面は急に落ち着きを見せます。解像感の高い合焦部にまとわりつく微妙なハロが、上質の紗を利用したかの様なソフトな描写を醸し出します。フイルム時代は、クリアーなファインダー像からは想像もできない仕上がりに驚く事も多かったのですが、ミラーレス機はライブビューであらかじめ予想ができるので、新たなSummiluxの活用に期待できそうです。距離計連動との制約もあり、本レンズの最短撮影距離は1mと少々長めですが、ヘリコイド付のマウントアダプターを併用すれば、さらに一歩踏み込んだ撮影も可能です。

 

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たまたま手元に数本の35mmレンズが集ったため、同一箇所でレンズテストまがいの試写をしてみました。本レンズには絞り解放で見せる独特のソフト描写と絞り込んだ際に見せる高精細な描写の二面性が存在します。被写界深度が広がり始めるf5.6辺りから画面全域で解像度はピークに達し、ハレーションの類いも影を潜めます。別のレンズで撮影したのかと見誤るようなクリアで高精細な映像は、最新設計のレンズ達と比較しても、肩を並べるどころか頭一つ抜けていると感じる部分も存在します。画像左上隅に写された電気系統用と思しきボックスの表面は、冷却用と思われるごく小さな穴が無数にあいた鉄板が使用されているのですが、この穴を見事に解像しているのはテストレンズ中、本レンズともう一本だけだった事をお知らせしておきます。


 

 

MINOLTA AF 100mm f2.8 MACRO

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 Aマウント一眼レフ用交換レンズをミラーレス一眼(α7RⅣ)で活用できるLA-EA5を入手して以降、50mmf1.4・20mmf2.8と、MINOLTA-α時代の設計を引き継いだSony製Aマウントのレンズの試用を断続的に続けています。単純に「光学的性能」という括りでは現行の最新レンズには敵わない部分はもちろん存在はしているのでしょうが、学生時代にも感じた、Nikkorとは一味違う写りの魅力をデジタル写真でも強く感じる事が出来る、そんな感想を抱いています。そして、MINOLTA-α時代からその高評価を不動の物としていた、「100mmマクロ」への興味も日増しに強くなっていたのです。

 本レンズの原型は、1986年に発売されたMINOLTA AF100mm f2.8 MACRO に遡ります。MINOLTA-αシステムは1985年発売のα7000でスタートを切っていますから、システム登場の極めて初期から本レンズが投入されている事が分かります。その後は、円形絞りの導入と新意匠への変更を果たした<New>タイプ、距離情報をボディーへ伝える為のエンコーダーの搭載で、フラッシュ自動調光の制御精度を高めたADI調光対応(D)タイプへと進化。そしてコニカミノルタ、ソニーへのブランド変遷を経つつ今日に至ります。(D)タイプ以降はマニュアルフォーカス時の操作性を高める為の幅広のピントリングを採用したことで、外観上は全く別のレンズのような佇まいとなりましたが、光学系は初代から踏襲されています。人気も高く看板レンズ的な役割も担う中望遠マクロレンズですから、40年近いロングセラーとなった本レンズの描写については、メーカー側にも巷の評価を裏付けるだけの相当な自信があったのだろうと想像できます。

 当初は50mm・20mmに次いで、100mmもSONY製で統一することを考えていたのですが、借用した際、広げられたピントリングの操作感触が思った以上に重く渋く、(入手した個体による「差」も無視できませんが)近接撮影時のピントの微調整は逆に手こずる事が多かった為、あえて旧世代の<New>タイプを購入候補としました。ピントリングはレンズ先端の薄いリングのみになりますが、保持バランスは決して悪くなく操作感に不満は出ませんでした。円形絞りの採用で、少し絞った際のボケ描写に初期モデルよりも期待できるのが選択理由の一つですが、ベストセラーレンズ故に中古市場への流入が多く、現状人気薄のAマウントレンズですから10,000円程度で状態の良い個体が入手できるのも大きな魅力です。ADI調光やデジタル補正の恩恵が不要であるなら<New>モデルは100mmマクロの隠れベストバイと言えるでしょうか。

 解放から優秀な解像感を見せるピント面、そこからなだらかに繋がるボケ像により、総じて「品」の高さを感じる描写力はなるほど評判通り。前後のボケはエッジの目立たない優しい物なので、花の接写は勿論、ポートレートレンズとしても実力を発揮する筈です。約40年前というフイルム時代の設計ながら、その描写力は6000万画素機でも尚更に魅力の高さを見いだせる事に驚きを禁じ得ません。マイクロフォーサーズでは45mm・90mmのマクロレンズを愛用していますが、フルサイズミラーレスでのマクロ1本目は、どうやら本レンズに決定してしまいそうです。(特にAF作動時のメカノイズには目、もとい耳を塞ぐ方向で調整は必要ですけど)

 

 

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フイルム時代からその「ボケ」に定評のある本レンズ。デジタルでの描写もご覧の通り。フルサイズ、中望遠、絞り解放とボケの大きくなる要素が多い事を加味して考えても、非常に柔らかく癖を感じさせないボケ像を見せます。前後ともにとても均質で合焦部を見事に引き立てます。

  

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ボケ像が乱れやすい被写体を選定してもこの通り。合焦面も絞り解放から解像度が十分に高く、非常に繊細な描写をします。100mmという焦点距離で日陰の接写ともなれば、下がったシャッタースピードでブレ写真の量産も覚悟しましたが、ボディー内手振れ補正のアシストもあって歩留まりの良い撮影となりました。レンズに手振れ補正を持たない旧タイプのレンズであっても、機材進化の恩恵をうけられるのは頼もしいですね。
 

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100mm MACROが<New>タイプにモデルチェンジした際、外装デザインのモダン化に加え、円形絞りが採用されたのは非常に評価される点です。花弁の厚みがあるため解放では被写界深度が浅く映像の説得力が下がるため、少し絞って撮影をしましたが、背景の輝点がきれいな「玉ボケ」になっていることがわかります。口径食も少なく周辺まで形を崩さず美しいボケ像を作ります。初代100mmは中古相場が<New>よりさらに一段お安くなっていますが、ボケにこだわるのであれば、<New>タイプ以降のモデルをチョイスした方が幸せになれるかもしれません。

 

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明るい中望遠レンズですからポートレートレンズとしてもその真価を発揮してくれるでしょう。まして本レンズのようなボケ像が美しいレンズであればなおさらの事。マクロレンズらしいシャープな合焦面と、そこから始まるなだらかで美しいボケが紡ぐ映像にウットリしてしまいます。初夏の木漏れ日が降り注ぐコントラストの高い難条件でしたが、階調のつながりも良く、陶器の質感描写も秀逸です。
 

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ハイライト基準で、日陰に咲くバラを一枚。被写界深度は浅く合焦部はごく一部になりますが、前後のアウトフォーカス部分とのつながりが非常に美しいので、こういった厚みのある被写体も自然に写し取ってくれます。何度でも申しますが、「あの価格」で「この描写」が手に入ってしまうのは、なんだか申し訳無い気すらしてきます。

 

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丁度花弁の部分にだけ木漏れ日が当たる条件で撮影。軽い逆光状態での撮影ですが、描写はクリアーそのもの。光学系の状態の良い中古が入手できて幸いです。Aマウントのレンズは、ボディーから取り外した状態では機構上、絞の羽根がある一定まで閉じた状態となるため、ガラスの状態を見るためにはピンセットや精密ドライバー等を使い、絞りの連動レバーをスライドさせる必要があります。中古カメラ店では、あらかじめレンズのリアキャップの中央に穴をあけた専用の工具を自作したりするのですが、個人的にAマウントレンズへの興味が高まってしまた昨今、自分専用の工具を新調してしまいました。

 

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炎天下の蓮を絞をf8まで絞って撮影。画面全域が非常に高い解像感で満たされ、重厚感のある描写となります。かといって、質感を失うようなことはなく花や葉の手触りが伝わってくる感じさえ覚えます。しかし強烈な日差しの下ハイライト基準で露出を切り詰めましたが、シャドー部の「黒」の描写がなんとも美しく吸い込まれるような感覚です。

 

 

Zeiss Otus 55mm f1.4 ZF.2 (APO-Distagon)

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 50mm付近の焦点距離と解放f値1.4のスペックを持った単焦点レンズは、フイルム一眼レフの時代にほぼ全てのカメラメーカーから販売をされていました。135フォーマットフイルム(いわゆる35mmフルサイズ)において「標準レンズ」とも呼ばれるその焦点距離は、遠近感や画角が比較的人間の視覚に近い事に由来する癖の少ない描写特性を持つことに加え、解放f値の明るさ、適度な被写界深度、比較的短い最短撮影距離の特性から対応可能な撮影場面も多く、文字通りの「標準」として活躍しました。私の学んだ大学の授業では、1学年目の前期課題のほとんどはこの50mmだけを使用する縛りが与えられていたのですが、撮影の技術・理論の基礎習得にはとても有効な手段であったのだろうと今更ながらに感じています。

 ところでこれら「標準レンズ」には、多くのユーザーにとって初めて手にする1本(いわば、そのメーカーの名刺的な役割)となるからこその大事な使命が存在しています。それは、十分な性能を適度な大きさと重量そして価格で提供されなければならないという事です。この二律、三律背反とも言える命題のため、標準レンズ設計の歴史を紐解くと結果としてはある種の最適解、総じて「変形ダブルガウスタイプ」と称される6群7枚の光学系へと導かれていったように感じます。かつて各社が公開していた50mm f1.4のレンズ構成図、そしてその描写特性に共通点が多い事からは、逆に「標準」であることの難しさを感じ取れるとも言えるのではないでしょうか。

 さて、デジタル一眼が主流とっなた昨今、「標準」の役割を「標準ズームレンズ」へとバトンタッチしたかつての「単焦点レンズ」には、新たな時代がやってきたとも言えるでしょう。開放をf値を1.8としたことで安価となった単焦点レンズの入門モデルとして(いわゆる撒餌レンズ)、また解放f値を0.95やf1.2などとした明るさ・描写性能を極めたフラッグシップ的モデルとして様々な新レンズが登場しては話題に上っています。さらに「標準」の中でその代表を務めたと言ってもいい、解放f値1.4のモデルさえ「標準」に課せられたコストの枷が外された事もあるのか「6群7枚変形ダブルガウスタイプ」ではない新設計のレンズもお目見えするようになったのです。中でも「純正」よりも高額な定価設定で登場した「非純正」のSIGMA 50mm f1.4 DG Artや、当初40万円を超える売価でお目見えした本レンズには度肝をぬかれました。

 Zeiss曰く「標準レンズにおける完璧の概念を塗り替えた」とした、全長140mm超、重量約1Kg、フィルター径77mmと、135mmクラスの大口径望遠レンズに匹敵する装いを有する本レンズは、百花繚乱ともいえる現行焦点距離50mm付近のレンズで、間違いなく究極の一本であると言えるでしょう。Zeiss標準レンズ伝統のPlanarに類する設計ではなく、広角レンズでの採用例が多いDistagonタイプ(いわゆるレトロフォーカスタイプ)による非球面レンズを含む10群12枚のレンズ構成は、なんとその半数が異常部分分散特性レンズで占められるという遠慮(?)の無さで、設計の概念すらも塗り替える勢いです。一眼レフの黎明期に良く見られた性能確保の手段同様に、焦点距離を僅か長めの55mmに設定した事からも、設計者の強いメッセージが伝わってきます。この塗り替えられた標準レンズの概念、拙い映像では伝えきれないその魅力を是非皆様の眼力で汲み取って頂ければ有難いのです。

 

 

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f1.4。標準設定のJPEG撮って出しでこの色ノリです。もともと派手に彩色されたオブジェでしたが、どちらかと言えば派手目になるといわれる記憶の中の映像よりもさらにビビッドに感じます。開放描写で問題になる周辺光量落ちや口径食の影響も限りなく軽微でしょう。なによりボケた背景の切り株や庭石にもしっかりと立体感が宿っているのは一種不気味なほど。

  

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丁度、恐竜オブジェの背びれがボケチャートとして役立ちました。距離に応じて徐々に大きくなるボケ像が確認できます。硬すぎず、柔らかすぎず、前後に均質に広がるボケ像、いい塩梅です。旧来の設計ですと口径食の影響もあって背景が同心円状に渦を巻いたように変形する通称グルグルボケが目立ちやすい状況ですが、本レンズでは当然目立ちませんよね。ピントの切れ込みも解放とは考えられないほどシャープです。

 

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モノクロにすることで、トーンの繋がり、優れたコントラスト再現性が確認できます。高解像度センサーの恩恵もありますが、合焦部を拡大すると、オブジェ構成素材の結晶の粒を感じられるほどのシャープネスに驚きます。

 

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さすがに多少の破綻を生じ「味わい」のある描写をするだろうと想像したピーカンの建造物。こんなに「普通」に写ってしまうとは。。。。。。周辺光量落ちはさすがに感じ取れますが、それ以外に突っ込む要素が見当たりません。描写のクセに頼れないレンズ、実力試験試をされている気もしなくはありません。

 

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対称光学系を基本とした変形ガウスタイプのメリットに歪曲収差の補正が挙げられますが、レトロフォーカスタイプで設計された本レンズも非球面レンズや最新の設計技術を活用し、非常に高いレベルで補正がされています。デジタル補正の恩恵を得られない組み合わせでの利用ですが、歪曲の影響を実写で感じる事は殆ど無いかと思います。

 

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かなり輝度差の大きい被写体でしたが、露出補正のみで飛びやつぶれの少ない映像を手に入れられました。部分補正をせずにこの仕上がりです。センサーのダイナミックレンジを生かし切る相当に懐の深いレンズだと感じます。

 

Dsc01263

本来絞り込んで撮影するのが妥当な被写体ですが、機械精度も高くEVFでもマニュアルフォーカスによるピント合わせが快適なので、絞りを開けてファインダー像の変化をついつい楽しんでしまいます。フリンジの少なさもアピールポイントとされていますが、なるほどこんな光源下でもエッジに不用意な色づきは発生しません。太陽を避けたフレーミングにしてはいますが、逆光の耐性も当然高いレベルで確保されているとお知らせしておきます。

 

 

プロフィール

フォトアルバム

世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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