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2025年7月

SONY FE 135mm f1.8 GM (SEL135F18GM)

 

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 デジタル一眼レフ市場へ参入する際、一部高級レンズの看板として「Carl-Zeiss」を掲げたSONY。事業引継ぎ元のKonica-MINOLTA時代から、一部の交換レンズには「G」の称号を用いシステム内での差別化を図っていましたが、デジタル一眼レフへの本格参入に合わせてリリースされた数本のレンズには「Zeiss」のブルーバッチが付与されました。参入当初から「高性能」である事を端的にPRする為、不動の評価を持つ「Zeiss」の看板を巧みに利用した恰好ではありますが、京セラのカメラ事業撤退で先行きに黄信号が灯った「Zeiss」の写真用レンズを存分に利用できるシステムが存続したことは、ユーザーサイドからしても大きなメリットとなったはずです。
 
 登場レンズ中、もちろん単焦点レンズに注目しましたが、CONTAX-N シリーズ用で既にAF化を達成していたPlanarの50mm・85mmよりも、知る限り初のオートフォーカスレンズとなったSonnar 135mm f 1.8 ZA への期待が膨らみました。加齢による劣化が進む自身の視力に自信が持てなくなっている事もあって、極薄となる f 1.8 解放時の被写界深度下ではマニュアルでのピント合わせは難航必至。ここは素直に文明の利器に頼るのが最適解だと考えたからなのです。実際同レンズを初めて手に取る事になったのは製造中止後になってしまったのですが、フイルム時代のCONTAX Planar 135mm f 2 やZF.2マウントのAPO-Sonnar 135mm f 2 の試写を行った時と同様、その描写に何とも言えないため息の混じりの感想を抱く事となりました。マウントアダプター併用による試写でこそありますが、ミラーレス一眼のその高いAF精度の恩恵は計り知れないものがあったのです。
 
 さて、その後SONYは他社に先駆けてフルサイズデジタル一眼のミラーレス化へ舵を切り、その際に投入されるレンズにも過去同様にZeiss製レンズのラインナップを展開した訳ですが、Sonnar 135mm f 1.8 ZA はミラーレス用のEマウントレンズとして生まれ変わる事は無く、SONYブランドの本レンズ FE 135mm f1.8 GM にバトンを渡す事となりました。同様に、当初Zeissネームで登場した多くのレンズが、現在SONYブランドへ粛々と置き換えられている様にも見えるのですが、「Gレンズ」や「G Master」レンズを中心としたSONYレンズへの高い評価が定着した事で、「Zeiss」という看板に固執する必要がなくなってきた事を意味しているのかもしれません。(本当の理由は知りませんが・・・・)良い機会ですので「G」や「G Master」そして「Zeiss」について、SONYが語るコンセプトをメーカーサイトから拝借してご案内させて頂くとしましょう。

「Gレンズ」

 ハイレベルな写真表現のために、ソニーの光学技術を結集して設計された「Gレンズ」。レンズ性能を大幅に向上させる高精度な非球面レンズをはじめ、色収差を徹底補正するためのED(特殊低分散)ガラス、なめらかで美しいぼけ味を実現する円形絞り、ゴーストやフレアを限りなく抑えるナノARコーティング技術。さらに、操作性に優れたボディデザインや形状など、使い心地も徹底的に吟味。描写性も信頼性もワンランク上の品質基準を目指した、光学テクノロジーの粋を集めたGレンズの描写性能が、高度な写真表現を可能にします。

「G Master」

 画像処理の高速化とデジタル化により進化を続けるカメラの表現力を最大限に引き出すために開発された「G Master」。諸収差を効果的に補正する超高度非球面XA(extreme aspherical)レンズの採用や、従来よりも高い周波数の性能基準などにより、圧倒的な解像性能を追求。Gレンズでこだわってきたぼけをさらに進化させ、とろけるようにぼけていく理想的なぼけ味を実現。細部まで精緻に捉える解像力と、美しいぼけ味、精度とスピードを兼ね備えたAF性能を高次元で融合させたG Masterが、表現者の創造力をさらなる高みへと誘います。

 「Zeiss」

理想的なレンズ性能を求めてソニーとツァイスが共同開発した高性能レンズが「ツァイスレンズ」。光学性能に徹底的にこだわり設計されたツァイスのレンズは、情感まで描写すると言われ、階調、色再現、透明感、立体感、ぼけ味など、被写体の微細な質感までを再現します。また、光の透過率が極めて高い独自の「 T*(ティースター)コーティング」により、画質低下の原因ともなるフレアやゴーストを最小限に抑え、忠実な色再現とヌケの良い卓越した描写を実現します。

 

 新たに「G Master」となった135mm、標榜する美しいボケと究極的な解像度を引っ提げ、さらにAマウントのSonnarと比較して若干ながら軽量化を達成。ほぼ同一のスペックで存在するSIGMAのArtも加えればまさに三つ巴の競演。もう全部購入して日替わりで持ち出したくなる粒ぞろいですから、防湿庫に並べれば、さしずめ後宮を従えた帝にもなった気分にもなるのでしょう。まずは、買うとしたら何れの一本からか?これも究極の選択を迫られそうです。

 

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合焦面の前後に美しいボケの空間が広がる明るい中望遠レンズ。その圧縮された空気感が、被写体との距離感を絶妙な印象で伝えてくれます。85mmや100mmクラスのいわゆるポートレートレンズとは少し違った表情を捉えてくれるので、どちらか一本とは言わずやはり両方持っておきたくなるのが悲しい性。

 

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後ボケを確認する為にわざわざ悪目立ちしやすい駐車場の白線(文字)をフレーム内に。エッジが目立つと合焦部よりも気になってしまう事もありますが、さすがはGMレンズと言った所でしょうか。被写体の情報を適度に残しつつも嫌なエッジの発生は無く、気兼ねなく大きなボケを生かせそうです。

 

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梅雨時の晴れ間でしたが、初秋を思わせる高原の雲。少しばかり絞り込んで塔(避雷針?)全体が被写界深度内に収まるように一枚。後日、日焼け跡がヒリつくような強い日差しでしたが、きつくなり過ぎないコントラストがとても好印象でした。

 

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大柄なレンズですから市街地で振り回すには躊躇しますが、こんな街角のスナップにはとても重宝します。大きなボケが被写体を浮かび上がらせ、繊細なピント面が主題をキッチリとアピール。何処に向けてもいい映像を捉えてくれるので、メモリーカードの残量がみるみる減って行くのを覚えます。

 

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訪れた日は休業だった古書店の軒先。圧縮されたデータからは分かりずらいですが、本の手触りや紙の匂いまでが思い出せそうなのは、緻密に解像されている証。緩い描写で雰囲気を醸し出すタイプの描写も好みですが、高い解像度によるリアリティーによって、物の存在感が濃密に伝わってくるこういった描写ももちろんアリでしょう。

 

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画面全域にとても高い解像度を誇る本レンズですが、絞り込んでも線が太くならず精細な描写を維持します。ダムという巨大建造物が放つ独特の重量感を望遠レンズの圧縮効果で強調。この地元「八ッ場ダム」は完成まで紆余曲折があり話題の尽きなかった事を思い出しますが、現在は観光地としても人気スポットになっています。

 

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前日の豪雨の為か、放水の迫力が半端ではありませんでした。轟音と飛沫が飛び交う中で1/8000秒のメカシャッターによる撮影です。シャープネスが肝となる被写体は感度を上げる事がためらわれるので、思い切って絞りを開けられるのは大口径レンズならではの武器。解放付近でも高い描写力を発揮するGMレンズですから遠慮なく絞りを開けていけます。

 

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ダムの下流には、景勝地として有名な吾妻渓谷が存在します。ダムの放水によってあまりお目にかかれない水嵩となった渓谷は、独特なエメラルドグリーンの流れに満たされとても幻想的でした。

 

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かつて鉄山のあった地域にある駅の遺構。離れた場所の貨車にピントを合わせ、絞りは解放に設定。遠景の被写体でも合焦部のキレによどみがなく、綺麗に結像しているのは見事です。すこし緩目の解放描写を売りとする大口径レンズも多いですが、本レンズは距離や絞りに関わらず高い結像性能をみせてくれる頼もしいレンズです。

 

 

 

SIGMA 135mm F1.8 DG | Art (SONY-E)

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 交換レンズの主流が「単焦点レンズ」だった時代、35mm一眼レフ用の135mm単焦点レンズは望遠レンズの代表格だったと言えます。まだまだ一眼レフカメラが高嶺(高値)の花だった頃に、手の届きやすい価格展開でベストセラーとなったPENTAX SPシリーズなどは、現在買取品として持ち込まれる際、標準レンズと共に28mm f 3.5・135mm f 3.5 (f 2.5) がセットになっているケースが非常に多い事からもその一端は伺えます。現在のデジタル一眼入門セットで言えば、ダブルズームキットの望遠側を担っていたと言い換える事もできるでしょう。被写体の引き寄せ効果、浅い被写界深度、大きなボケ、遠近感の圧縮といった標準レンズとは違う「望遠レンズらしい」表現効果がしっかりと感じる事ができる135mm。さらに効果の大きな200mmクラスとなれば画角を含めて標準レンズとの差が大き過ぎて被写体を選ぶきらいもありますから、汎用性を考えれば妥当な着地点だったのでしょう。

 総じてフイルム当時のカメラメーカーは、そのレンズラインナップに135mm f2.8 もしくは f3.5スペックのレンズを必ずと言って良いほど加えていましたが、本格的にズームレンズが浸透し始めた頃からは、135mmは35-135mmといった標準ズームレンズのテレ端の焦点距離として我々の眼に触れる事が増えました。一方、70-200mmや100-300mmといった望遠ズームレンズにその焦点距離が内包された事で、その存在感は以前に比べると薄まった印象もありました。やがてオートフォーカス化が進み、カメラメーカー各社から明るさ f 2.8クラスの80-200mmズームレンズがリリースされ始めると、短焦点の135mmは、誰もが購入する普及価格帯のレンズではなく、明るさ f 2 クラスのプレミアムレンズが中心となる、「大口径中望遠レンズ」としての立ち位置を明確化させました。加えて、ソフトフォーカス(Canon EF 135mm f2.8 ソフトフォーカス)やボケにこだわり、主にポートレート撮影に特化したと思われる特殊な肩書を持つレンズ( Nikon Ai AF DC-Nikkor 135mm f2 ・MINOLTA STF 135mm f2.8 [T4.5])が多いのも135mmの特徴となったのです。(上記3レンズは、残念ながら現在は全て製造を終了しています。)

 そしてデジタル化を迎えた現在では、f 2 クラスの135mmは、各社で明るさに磨きをかけた f 1.8 クラスへと進化し、価格も含めたプレミア感はさらに増しています。フルサイズミラーレス用としては、Canon・SONY・Nikon 何れのメーカーも135mmには f 1.8 を展開。特にNikonは「Plena」という固有愛称を与える力の入れようですから、一週回ってメーカーの看板レンズとしての側面を持ち始めたと言っても良いのかもしれません。本レンズもカメラメーカー各社がミラーレス化を果たす以前にSIGMAを代表するArtシリーズの一本としてリリースされたのですが、フィルター口径82mm・全長約140mm・重量約1.2キロ(Sony-Eマウント)という弩級仕様。機材の重さが気になりだした初老の筆者などにとっては弩M級の重量。小型のカメラバックであれば、本レンズを取り付けたカメラ一台で飽和状態になります。残念ながら、ミラーレス専用設計モデルのアナウンスを待たず、現在全マウントの生産が完了しましたが、驚愕の描写性能を保持しつつ小型軽量化の期待できるDG-DNシリーズへの転生を期待しようではありませんか。

 

 

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写り込む被写体全ての情報を望遠レンズ独特の圧縮された遠近感の中に閉じ込めます。繊維の種類毎によって変化する衣類の質感、ハンガーやイーゼルの木目の調子、ファスナーの金属部品の光沢感、素材の持ち味を容赦・遠慮・手抜き無く結像させることで、街角のスナップに極上のリアリティーを生み出します。紛れもなく「良レンズ」。

 

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似た様な被写体が混在する中ですが、合焦部が綺麗に浮かび上がります。ある程度離れた距離からの撮影ですが、135mm の被写界深度の浅さからくる合焦点後ろのボケと本レンズのキレの良さが上手くマッチしました。

 

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生命の神秘ってやつでしょうか。なぜか一本だけが別の方を向くチューリップに、どことなく親近感を覚えるから不思議です。小雨交じりで厳しい条件下でしたが、こういった状況でなければ得られない映像があるのも事実。せっかくの休日が雨天だと気分も滅入りがちですが、強行して撮影に出かけた事でご褒美にあり付けた気分です。

 

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すこしトリッキーな映像です。ウッドデッキにたまった雨水と池の水面、それぞれに対岸の樹木が反射し写り込んでいます。風がほとんどなく水面が凪いでいたためにまるで鏡を覗いているかのような描写になりました。

 

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遠近感が圧縮されたことも手伝い、鎖の重量感が良く伝わってきます。ボケ方の癖が出やすいタイプの被写体であっても上品な描写です。硬すぎず、柔らかすぎずの好印象。これなら存分に開放絞りを堪能できます。

 

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ショッピングモールでウインドーショッピングがてらの撮影。口径82mmとかなり目立つ外観ですから、人込みでの振り回しは神経を使うのではないでしょうか。おそらくは都会だと速攻「不審者」扱い。こんな時は田舎住まいも悪くは無いと思う瞬間です。

 

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繊細な、という表現がが似つかわしい合焦部の描写。しかしながら頼りなさや儚さではなく、凛とした力強さを感じます。こういった小さな被写体を相手にする際、ミラーレス機のAFはとても頼もしく、被写界深度の浅い望遠レンズであっても解放絞りを躊躇なく使えます。
 

Dsc04785

少々悪ふざけ。合焦部の先鋭度が高いから許される映像でしょうか。当たり前ですが、水面の波紋は刻々と変化し、たとえ秒間10コマ以上の連写であっても同一カットは存在しません。20枚ほどのデータからお気に入りをチョイスするのですが、時間を置いてから選択すると、また違ったカットを選んだり・・・・。こういうのもまた写真の楽しみなんですよね。

 

 

 

プロフィール

フォトアルバム

世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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