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Nikon Ai Nikkor 50mm f1.4

 手持ちレンズの最古参になるのが、このAi Nikkorの50mm。と言いましても本来の所有者は父なのですから、「手持ち」という形容も誤りということになるのでしょう。私が幼少時代に父が奮発・・・したかどうかは定かではありませんが、Nikon FEのボディーとともに購入してきたのが本レンズです。以来、当時趣味だった鉄道の駅撮り写真の撮影に欠かせない相棒となり、高校時代にはテレコンを併用したポートレート用の中望遠レンズとしても随分と活躍しました。また、クラスメイトを撮影したモノクロ写真で当時開催されていた「GEKKOフォトコンテスト 」に入賞するなど、思い出にも事欠かないレンズとなっています。

 しかし、大学に入ってからは家財を持ち出すうしろめたさ(?)もあって、後継のAi-sタイプをバイト代にて別途購入。その後はコンタックスへとメイン機材を変更したため本レンズを使用する機会は殆どなくなってしまいました。そして時が過ぎ、デジタルカメラがメイン機材となってからも既に15年という時間が流れ、あえて持ち出す機会も少ないまますっかり防湿庫の留守番をまかせっきりにして今日に至ります。

 何をもって「オールド」という称号を与えるかは議論の余地を残しますが、昨今ではフイルム時代に生産されていたレンズは大概「オールドレンズ」と呼ばれています。自分の半生以上を共に過ごしてきたレンズが年寄り呼ばわりされることに少々イラつきを覚えてしまうのですが、出番をすっかり減らしてしまった張本人のダブルススタンダードっぷりに呆れたりもしています。そんな私でさえ「お兄さん」と呼ばれなくなって久しいのですから、年を取ったことに恨み節を吐くのではなく、重ねた齢に誇りを持って「オールド」の称号を受け取れたらどんなにか素晴らしいことでしょう。

 本レンズは内部清掃・グリス交換・ピントリングのゴム交換と三度の修繕を経てこそいますが、非常にクリアな光学系を保ったままの現役バリバリで、私にとって、改めてマニュアルフォーカスレンズの堅牢さとNikonブランドのモノ作りの確かさを裏付ける存在となっています。学生時代はその描写に悪態をついたこともあったり、なかったりなのですが、Super-Takumar同様、デジタルの息吹を与える事で、新たな発見がいくつもありました。恐らくはこの先も「最古参」でありつづけるのでしょう。

 

 

P1168484

1.4の解放では、わずかハイライトに滲みを伴う画質となります。かといってコントラスト全体が極端に下がっているほどではありません。この辺はSuper-Takumar比で考えますと、新しいレンズという事になるのでしょうか。古いAuto-Nikkorだとどんな描写になるのか、興味がででしまいました。

 

P1168409

三つの点が逆三角形に並んでいると「顔」と認識する様に人間の脳にはプログラムされていると言われる、シミュラクラ現象を応用?した装飾でしょうか。農薬散布用の小型自動車に小動物をモチーフにしたかのような髭の装飾がおしゃれです。かなり古いもののようで、背景の自動車の「顔」デザインとの対比も面白いです。フイルムで使用していた時はややボケに硬さを感じて気にしていたのですが、こうして見ると存外素直で良い感じですねぇ。これも1.4解放時の描写です。

 

P1168491

昔の記憶が気になったので、よりボケの質を確認しやすい被写体をチョイス。後ボケはやや硬めで、二線ボケ傾向にあります。前ボケは柔らかい印象でしょうか。被写体によっては目立つかもしれませんが、「目の敵」にするほどでもないでしょうか?うーむ。なんで昔は毛嫌いしたのでしょうか?

 

P1168448

という事で、逆に少しざわついたボケを生かそうと、こんな被写体を撮影。これも解放なのですが、合焦部の解像感はなかなかです。真夏の炎天下の撮影だったのですが、どっしりと落ちたシャドー部と線の太さを感じる「Nikkor」らしい描写に満足満足。こういった被写体、フイルム時代はつきすぎるコントラストに手を焼いて現像方法やプリント調整を試行錯誤したものですが、JPEGの撮って出しでコレですからねぇ。しかも1/32000の電子シャッターを利用していますので、フイルム時代にはできなかった撮影という事になるのでしょう。(あ、テクニカルパンという手もあったか・・・・)

 

P1168457

45センチの最短撮影距離付近。フルサイズ換算で100mm相当の望遠レンズですから、マクロ的な撮影も可能になります。絞りはf5.6あたりですが、立体感を見事に描写。ボケの癖もおとなしくなっていい感じです。なかなかに多才なレンズだなぁ、と正直驚いています。防湿庫からの出動回数、少し増えるかもしれません。

 

P1168518

一枚位はカラーで。画面中央部をトリミングするマイクロ4/3だと、歪曲収差もほぼ皆無と言っていいでしょう。炎天下、芝生の照り返しで画面全体がグリーンにかぶっていますが、そのへん含めて季節感ということであえて無補正で。幼いころ近所の薬局に備え付けてあった有料の遊具、母親にせがんでは断られていた事をちょっと思い出しました。そういえばあの頃からこのレンズは我が家に存在していたのですね。

 

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世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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