SONY FE 100mm f2.8 STF GM OSS (SEL100F28GM)

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 当ブログのタイトルは、戦場カメラマンとして歴史に名を残すロバート・キャパの著書「ちょっとピンぼけ」にあやかっています。この書籍タイトルは、原題「Slightly Out Of Focus」からのとてもセンスが光る和訳なのですが、そう感じる理由として「Out Of Focus」を一言で表現する「ボケ」という日本語の存在がとても大きいのだと感じています。画面全体にピントが合っていると感じられる、いわゆるパンフォーカスで撮影された写真を除けば、写真の中には「ピントの合った部分」と「ピントの合っていない部分」が存在しています。当然の事ながら作者は最も注視して欲しい被写体の部分にピントを合わせるのが一般的であり、ピントが合っていない部分は作画上の脇役であったり、場合によっては全く必要のない部分と考えられることさえあるでしょう。俗に言う「ピンぼけ」が失敗写真の代名詞になっている事からも、写真においてピントが合っている事は一種の大前提と言えなくもないのです。だからこそ、あえて「ピントの合っていない部分」に英語圏には存在しない特定の呼称を与えた、かつての日本人の感覚には尊敬の念さえ抱けるではありませんか。「KOBAN(交番)」や「KARAOKE(カラオケ)」の様に、それまで海外にはなかった日本独自の文化・風習が受け入れられる際、いわば輸出された日本語としてこれらの言葉が定着していった訳ですが、「ピントの合っていない部分」を表す言葉が、現在英語圏で「BOCHE」と日本語の発音そのままに表記される事が、なんだか誇らしいではありませんか。

 さて、レンズに話を移しましょう。写真レンズに求められる性能を考えた時、個人的な感覚や作風などにも影響されますから、答えを一つにまとめる事は出来ないのだろうとは思います。しかし、「ピントを合わせた部分がしっかりと結像・解像する」という点に関しては、議論以前にレンズという商品の性格上当たり前の事だと考えても良いでしょう。だからこそ、本レンズ「STF」のようにピントの合っていいない部分、すなわち「ボケ」にスポットを当てて設計をされたレンズが存在する意義とは何か、興味が湧いてくるではないですか。非合焦部への明確な名称「ボケ」を有する言語を用い、さらにその「味」にまで言及する「ボケフェチ」とも言える日本民族が拘った一本、その実力とはいったいどんな物なのでしょう。

 「STF(Smooth Trans Focus)」と銘打たれた本レンズは、アポダイゼーションと呼ばれる特殊な光学系を採用しています。ものすごくざっくり言えば、周辺に向かって濃度を増すNDフィルターの様な物なのですが、この効果でボケ像に発生するエッジを弱め、俗に言う「硬いボケ」や「二線ボケ」などを抑制する効果が期待できるのです。同様の構造・発想は富士フイルムのXF56mm f1.2 R APD(アポダイゼーションの略)やCanonのRF85mm f1.2L USM DSにも存在しますが、両レンズ共にその効果を持たせないノーマルなレンズも併売しています(した)。描写特性の違いを選択肢としてユーザーに与えるという面もありますが、前述した通りNDフィルター的効果の発生で、センサー面に到達する光量が落ちてしまうと言うデメリットが存在する事も理由にはなるでしょう。実際本レンズも解放F値は2.8としていますが、実際にセンサーへ到達する光量を表記するT値5.6を併記しています。単純計算で絞り解放の状態でもシャッタースピードにして2段分の光量ロスが発生している事になりますが、その辺りはレンズ内手振れ補正に自信もあるのか、SONYからはノーマルバージョンのレンズが発売されていないのが興味深いところです。 

 別のアプローチでは、過去にNikonからも105mmと135mmに「DC(Defocus-image Control)機構」を持たせた2種のレンズが存在していました。この機構はレンズに発生する収差(主に球面収差)を搭載されたDCリングの操作で意図的にコントロールし、ボケ像の柔らかさを変化させるという手法で、アポダイゼーション光学系のような減光は発生せず、調整の量によってはソフトレンズ的な応用もできる半面、効果は前ボケ・後ボケどちらかを選択する必要(後ボケを柔らかくすると逆に前ボケは硬くうるさく感じ、逆もまた然り)があり、さらに絞りの変化に応じたDCリングの操作が都度必要になるなど、使用には若干の慣れと工夫が不可欠なものでした。

 いずれにしましても、フルサイズ換算での85mm~135mm近辺の焦点距離で尚且つ明るい単焦点レンズへの実装が殆どな「ボケ」を意識したこれらの機構や構造ですが、やはりそれらのレンズはポートレート撮影などでの利用頻度が高く、メインとなる被写体を浮かび上がらせるためのより魅惑的な「ボケ」を演出できるレンズが求められているという事なのでしょう。物語の行間であったり、役者の三枚目、あるいは酒の肴といった様に、「ボケ」も本来は主要被写体を引き立てる役回りでありますが、時に主役以上に重要な立ち回りを見せる名脇役のごとく、上手く使いこなせばきっと作品の深みも増してくれるのでしょう。

 これは、本当に余談に過ぎない事なのですが、先ごろ映像に関わる若い世代の方たちから「ボケ感」という言葉を目や耳にするようになりました。恐らくはぼけ像の様子(いわゆるぼけ味)やぼけの大きさの程度を指した言葉なのだと想像はできるのですが、個人的な感覚としては、「ボケ」という言葉には「ピントが合っていない感じ」のように「感」がすでに内包されているイメージがあるので、結果としては「ボケ感」という言葉にはどこか「頭痛が痛い」同様つまりは「ピントが合っていない感じの感じ」の様に素直に呑み込めない違和感が伴ってしまうのです。こんなことを公言すると「老害認定」を受けてしまいそうな恐怖もあるのですが、お客様からスマホの画像を見せられて、「こんな「ボケ感」が出せる単焦点のオールドレンズってありますかぁ?」なんて聞かれた時の、あの肩甲骨と背骨の間の筋肉がぞわぞわっとする感覚がどうあっても馴染めないのも事実なのです。

 

 

Dsc02759並んだ中央の駐禁の看板にフォーカス。合焦部から前後に綺麗に広がる「ボケ空間」を見る事が出来ます。アウトフォーカス部にある手前の看板の文字や背景の電信柱など、レンズによっては悪目立ちすることもあるハイライトを含んだボケ像のエッジが、どちらもとても緩やかに描写されています。

 

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こういった細い枝葉なども、二線ボケなどの影響で遠近が分からなくなる描写をしてしまいがちな被写体ですが、STFの効果でご覧の通り。安心して作画に取り入れることができます。

 

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水面の蓮の葉と写り込んだ薔薇の枝。水底に沈んだ枯れ葉もかすかに見えるでしょうか。非合焦部が非常に穏やかな反面、合焦部の先鋭な描写はさすがSONYレンズ最高峰の証GMの銘を冠するだけの事はあります。本レンズの祖先はMINOLTA時代のAF 135mm f2.8 STFと想像できますが、Eマウント化にあたって焦点距離を100mmとしたのはFE 135mm f1.8GMとのバッティングを避けるためなのでしょうか?

 

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口径食の影響が抑えられ画面周辺まで均質なボケ像を描く事も本レンズの特徴。もともとボケのエッジが綺麗に滲んでいる為に目立ちにくいのですが、水面の反射がボケた玉ボケの像も、周辺まで綺麗な円形を保っています。かなりの逆光条件でしたが、懐の深い大型レンズフードがしっかりと仕事をしてくれました。レンズ内の反射防止性能が高いのも言うまでもありません。

 

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テスト撮影を行ったのは丁度紅葉の入り頃でした。背景との距離はそこそこありますが、100mmにしてはボケ方が大きいと感じるのは、アポダイゼーションの効果でぼけの輪郭部がきれいに滲むからなのでしょう。200mm程度の望遠レンズを使った描写に近い印象にも感じます。

 

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ボケにだけ拘ったとするなら「GM」レンズとはならなかったでしょう。ちょっと絞り込んで庭園の片隅にまとめられた剪定用具をスナップ。合焦部の質感がすさまじく、拡大画像を見ると織物の繊維が一本ずつ確認できる程です。高い解像力と美しいボケの共存、まさに理想のレンズの形その一つなのでしょう。

 

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専門のマクロレンズ同等とはいきませんが、本レンズには切替によって、最短撮影距離を57cm(撮影倍率0.25倍)にするマクロ機構が内蔵されており、人物撮影だけでなくこういった植物などの撮影で重宝します。本来であればシームレスなのが一番ですが、恐らく画質を最善に保つための手段なのでしょう。MINOLTA時代の100mmマクロもボケ味には定評がありますが、ポートレートや遠景での利用が多ければ、STF一択で良いと思います。(資金があれば・・・)

 

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撮影前日の大雨が上がり霧が立ち込めた庭園。濃霧+アポダイゼーションの合わせ技なのでしょうか、とても幻想的な雰囲気に仕上がりました。所在なく溶けてしまうタイプのボケ像ではないので、木道の存在感がなんともリアルで良い塩梅に。

 

Dsc02709ポートレートなどでは、立体感を表現するために多用する半逆光のシチュエーション。ハイライト部分にのみ、わずかに紗をかけたかのような絶妙なボケ像と、合焦部のリアルな彫像の質感がその場の空気感を見事に演出。本レンズならではの絵作りと言えるでしょう。背景には印刷された段ボールが写りこんでおり、レンズによっては煩わしく見えてくる部分ですが、全く気になりませんね。

 
 
 
 
 
 

SIGMA 35mm F1.4 DG HSM | Art (Canon-EF)

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 SIGMAは、生産するレンズをその商品性格別にArt・Contemporary・Sportsと 三種のプロダクトラインに区分・再編成し、明確なプレゼンテーションをすることで、過去「廉価品」といったレッテルで一括りにされがちだった同社の製品を「レンズ専門メーカー」の作り出す「オリジナリティー溢れるレンズ」へと完全にイメージチェンジ、加えてどちらかと言えばカメラメーカよりも格下に扱われる事も多かったであろう自社の立ち位置を見事なほどに覆してしまいました。(少なくとも筆者はそのように思っております)

 再編されたプロダクトライン中、「圧倒的な描写性能。表現者のためのレンズ。」とされた、Artシリーズは、現在ではSIGMAを代表する商品群としてラインナップが拡充され、その性能の高さが多くのユーザーから認知されるに至っているのですが、その先鋒としての役割を担った第一号が本レンズ「35mm F1.4 DG HSM | Art 」でした。一種の設計で、多種のマウントに対応させることができるレンズメーカーとしての強みを生かし、6種のマウントが同時展開されました。(厳密には各マウント毎に物理的な構造変更だけでなく、光学性能的なチューニング等も必要なはずで、完全に同一設計ではない部分もあると思いますが)元来この手法は、コストダウン・収益性アップといったメーカー側のメリットが思い浮かぶのですが、昨今のSIGMA製レンズの高性能化を考えれば、「どんなボディーを所有していたとしてもSIGMAのレンズを使う事が出来る」というユーザー目線でのメリットも、より確かになった事でしょう。(二度目ですが、少なくとも筆者はそのように思っております)

 さて、焦点距離35mmの画角・明るいレンズが共に好きだった為、35/1.4というスペックのレンズは、自身の所有機材の遍歴を辿るとその思い出に事欠きません。生まれて初めて所有したのはNikonのAi Nikkor 35mm f1.4s。以降M型ライカと同時購入したSummilux-M 35mm f1.4、メイン機材のCONTAXへの移行時入手したDistagon 35mm f1.4といったのが主な所有歴。各々それなりの期間利用しましたが、機材がデジタル化をしてからは長い間マイクロ4/3フォーマットの機材をメインに使用していたので、実はフルサイズフォーマットでこのスペックのレンズを使用するのは相当ご無沙汰となりました。しかも上記レンズは全てがフイルム時代の設計(Summiluxに至っては1960年代の設計)でしたから、最新設計の本レンズとその描写への期待は試用前から最高潮となりました。

 期待とは裏腹に、テストボディーとして使用したのは6100万画素を誇るα7RⅣですから、その高画素を活かした描写となるのか一抹の不安も無いとは言えなかったのですが、結果はご覧の通り全くの杞憂となったのです。絞り解放から中心部の解像度は相当に高く、周辺部に若干の解像度低下・減光を感じるものの、実用に際し全く問題にならないレベル。f4辺りから画面全域が超高解像度となり、周辺部に存在するどんなに細かなテクスチャーも完璧に解像してしまいます。歪曲収差やフレアコントロールも最新設計らしく非常に丁寧に処理されており、一切の不満はありません。ボケ像に至っては、広角レンズである事を忘れるほどに解放から美しいもので、しっかりとレンズの明るさ・ボケをいかした作画が可能でしょう。かと言って、無味乾燥な描写とはならず、空気感やその場の湿度、物体の質感といった要素までもしっかりと写し留めてくれるのは、さすが「Artシリーズ先鋒」の面目躍如といったところでしょう。たまたま入荷したCanon-EFマウント用のレンズをSIGMA純正のマウントアダプター併用で試用しましたが、現在では、ミラーレス一眼へ最適化したDNシリーズもリリースされています。これ以上いったい何を改善したのか気になって仕方がないのですが、それはまた別の機会という事で。

 

 

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正規のEマウント同等、とは言いませんがMC-11併用によるCanon-EFマウント用レンズでもAFによる撮影は十二分に可能です。落日後うす暗くなって帰路につくカラスを発見し咄嗟にカメラを上空へ。カメラのAFはこちらの意図を上手く汲み取ってビルの壁面へ。絞り開放ですが、ギリギリ広角レンズの特性でカラスも被写界深度内に入ってくれました。空のハイライト・ビルの壁面のシャドーともに微妙なトーン変化も再現されました。

  

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明るいレンズは、例え広角であったとしても「ボケ」を使いたくなるのが人情?ですよね。本レンズに関しその高い性能の噂は何度も耳にしていましたが、さすがに意地悪な被写体を最短(30cm)近くで撮ったので、多少は暴れたボケ像を覚悟していたのです・・・・・・が。んーーーーー。これはおみそれいたしました。極周辺で減光こそ感じますが、合焦部の解像感の高さや素直なボケ像、自身が過去に使用したどの35/1.4より好みの描写である事は間違いないですね。(個人の感想ですケド)

 

 

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過去にボケの大きさを求めて購入した他社35/1.4は、そのボケ像に存在するクセが馴染めず手を焼きました。結果、よりボケが素直と感じた解放f2のモデルへと買い替えてしまった経験があるのですが、本レンズの解放ボケ描写への心配は無用でしょう。広角レンズであることを忘れてしまうほどに、周辺まで質の高い素直なボケ像を見せてくれます。電気メーターに記された極小「QRコード」がリサイズ前のオリジナル画像でははしっかりと利用できたことも付け加えておきましょう。

 

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早朝らしい透明感がしっかりと「描写」されている気がしませんか?影の濃淡やどっしりとシャドーが落ちた扉の描写、壁面ハイライト部の微細なディテール描写が、見えない筈の空気を確かに感じさせてくれます。融雪剤の影響で褐色化したアスファルトやコンクリートの質感も良い塩梅ですね。ちなみに扉には「関係者以外立入禁止」のレタリングがあるのですが、オリジナルではフォントの判別ができるほど克明に記録されているのも驚きです。

 

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レンズとカメラボディーのメーカーが違う場合、基本は収差補正に必要なプロファイルデータがそれぞれに内包されていない為、いわゆるデジタル補正をアテにできないという制約が存在しています。しかしながら、SIGMA製のマウントコンバーターMC-11で同社製レンズを利用する際は「周辺光量、倍率色収差、歪曲収差などのカメラ側の補正機能に対応」との事。無論ボディー側で補正の有無は選択できるのですが、本レンズは補正無しでも取り立てて問題を感じないのは、基本設計が優秀な証なのでしょう。

 

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極端な逆光ではありませんが、やはり最新設計らしくフレアコントロールは見事です。強い光源の周辺であっても、シャドー部のトーン描写・解像感に不安はありません。木造パネルの表面にある年輪模様なども全域に渡りキッチリと解像し、歪曲収差や周辺減光といった欠点も非常に僅かなのはご覧の通り。

 

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住宅の解体現場を通りがかった際、残された隣家の壁面に丁度いい具合に西日が射し込んでいました。絞り込んで画面全体を被写界深度内に収めた一枚ですが、本当にツッコミ処がまるでないほどの高画質。壁面の微細な凹凸や、各種機器類に記載された文字情報も拡大すればしっかり確認可能なのです。だからと言ってその優等生っぷりを無理やりひけらかすような無粋な感じを受けないのが、これまた憎らしいじゃないですか。

 

 

 

SIGMA 50mm F1.4 DG HSM | Art (Sony-A)

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 自動車用のエンジンオイルだったりすると、あえて「非純正」を使用することに一つのステータスを感じるといった場面もあったりしますが、カメラ+レンズの使用時は「純正」同士の組み合わせを至上とするという考え方が少し前までは一般的だったと記憶しています。マウントアダプターの利用が広まった昨今では、メーカーを跨いだカメラ+レンズの利用も選択肢の一つとして積極的に活用される様になってはいますが、フイルムカメラ全盛の頃は、カメラボディーには同じカメラメーカー製のレンズを装着するのが言わば定石だったのです。少し汚い言葉を使うならば、メーカー純正ではない、いわゆる社外レンズにはどこか「二流品」のイメージさえ付き纏っていたものなのです。

 機能の互換性や精度・性能の担保といった面を考えれば、純正レンズを選択する事が無難となるのは自明の理。社外レンズには純正レンズと比べた価格の安さや、ズーム比・明るさを欲張るといった分かり易い購入メリットを打ち出すことが必須となり、結果として描写性能面では不利な立場に置かれていたのも頷ける話です。加えて、外装パーツ・仕上げ等といった部分にはコストダウンの影響が色濃く残る製品も多く、それらが総じて社外レンズへのマイナスイメージ定着を助長してしまったのでしょう。さりとて財布の紐が自由にならなかった高校生時代の自身(今もですけど)の様に、廉価な社外レンズには随分とお世話になり、生涯会津方面には足を向けて寝られなくなってしまったと言う元写真少年も決して少なくはない、これもまた本当のところなのでしょう。

  だからこそ、なのです。本レンズの土台となった SIGMA 50mm f1.4 EX DG HSMが発売された当初は、自分の眼と耳を相当に疑いました。なぜなら発表された当時(2008年頃)は、すでにズームレンズが標準レンズの大本命だったとはいえ、フイルム時代には標準レンズの代表格でもあった50mmの単焦点レンズを社外レンズメーカーが発売したとして、いったいだれが食指を伸ばすのか想像も及ばなかったのです。さらに、77mmというf1.4クラスの50mm単焦点レンズではお目にかかった事がない巨大なフィルター径、長年一種のセオリーでもあった6群7枚のダブルガウスタイプとは大きく異なる光学系、当時のカメラメーカー純正の同クラスレンズと肩を並べる税別60,000円という価格設定、その全てが、それまでの私が持つ「社外レンズ」へのイメージとは随分とかけ離れたものだったのです。

 今になって思うのは、それがSIGMAの実に巧妙な戦略であったのだろうという事です。誰もが知る「標準レンズ」にあえて挑戦し、高い性能をアピールした事によって、同社が純正レンズに対抗・凌駕しうる製品を製造する技術力を持つと言う事実が、この一本で実に痛快に証明されたのです。想定外に巨大な口径を有した余裕からか、画面端まで絞り解放から十分以上の解像性能を見せ、周辺光量の低下や口径食といったハイスピードレンズに付きものの欠点も極僅かに感じられる程度です。これだけの高い解像度の大口径レンズですから、高輝度被写体のボケ像に僅かエッジを見せる場面もありますが、嫌味と感じる事は希でしょう。基本性能が異常なまでに高く、レンズの「味」などといった誤魔化しが存在しないその映像は、撮影者にとっての試金石ともなりえるでしょう。

 そして、それらをさらに一段と高めた本レンズは、自ら「圧倒的な描写性能。表現者の為のレンズ。」を標榜する同社「Art」シリーズに属する一本。その描写に引けを取らない美しい外観の仕上げと、金属パーツを多用した905g(Lマウント公表値)という規格外の重量で、これまた「社外レンズ」のイメージを大きく変えた「新世代標準レンズ」を具現化しました。この「描写」を手にするには111,833円(2024年9月時点のメーカー直販サイト価格)が必要との事。Artシリーズレンズの登場は、社外レンズ=廉価品、この図式も完全に過去の物としてしまったのです。その描写性能を求めて「非純正」を指名買い、彼の日の自分には全く想像もつかなかった事です。

 

 

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フイルム時代から数々の50mmf1.4を使用した経験から、解放での描写には単純にもっと「エモい」描写を想像していました。しかし、それはまんまと(良い方向で)裏切られます。画面周辺での減光や解像感の低下、合焦部にも生じるハロや画面全体のコントラストの落ち込みなど、いわゆる「クセ」「味」とも評される描写上の特徴はごく僅か。歪曲収差もほぼ感じられず、極めて端正な「映像」を提供してくれます。絞り開放の描写ですから、もちろん合焦部以外には「ボケ像」が存在していますが、絞り込んで撮影することが多い「大判写真」に近い印象を受けるのが何とも不思議。

 

  

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変わり易い夏の高原の天候。遠雷の音とにわか雨で急遽撮影を中断。慌てて車内に逃げ帰る途中での1枚です。収差の少ない物理的性能が高いレンズは、残された収差が生み出す奇跡を作画に生かしにくいという面があるかもしれませんが、だからと言って「面白みに欠ける」とはならない事を本レンズが証明してくれるかもしれません。「Art」とは、なかなかに心憎いネーミングを冠されたものです。

 

 

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何者かが住んでいそうな木のうろ。開放から十分に高い解像度を誇る本レンズではありますが、少し絞ったf5.6辺りでは、被写界深度に余裕が出る事で合焦部の映像に説得力が増します。樹木の表皮や陽光を照り返す葉の質感は一種不気味さを感じるほどで、縮小画像で存分にお伝え出来ないのが心残りです。

 


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50mmとは言え、解放絞り付近で被写体に接近すれば大胆にボケを利用した作画も可能です。ボケ像の癖が少なく、画面周辺まで解像感の高い本レンズであれば、近接描写であっても大胆に開放絞りが利用できるのは大きな利点。被写体が小さく分かりづらいのですが、合焦部のトンボの翅、拡大するとそこに存在する細かな網目模様(翅脈と言うそうです)が元画像ではクッキリと解像されていて唖然としました。

 

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詳しく見て行くと、後ボケ像には若干のエッジがみられますが、嫌味を感じるほどではないでしょう。本レンズ、SONY(MINOLTA)一眼レフ用のAマウント仕様を安価で見つけたのが入手のきっかけですが、結局メーカーの有料サービスによるマウント変更でEマウント化してしまいました。現行品はすでにミラーレス専用に特化したDG-DNタイプへと移行しているため、ちょっとしたレアアイテム誕生という訳です。作動時のノイズ低下やAF作動の俊敏化など、Eマウント化の費用対効果が思いの他高い事を実感。有料とは言えレンズメーカーにしかできないサービス体制に関心しました。

 

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実際に周辺減光はどの程度あるのか白壁の被写体で確認。画面左側に窓があるシチュエーションでの試写です。開放でもここまで周辺減光が少ないのは見事。映像のアクセントとしてこの程度の減光は好印象に繋がるでしょうか。画面周辺部の解像度の高さや、ほぼ感じられない歪曲収差も人工物の撮影ではさらに際立ちます。合焦部(椅子の背もたれ)のテクスチャーは手触りが感じられるほど細密に描写されており、その性能の高さ故なんだか持ち出すこちらも緊張感を強いられそうです。

 
 
 

TTArtisan (銘匠光学)M 35mm f1.4 ASPH

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 ミラーレス一眼・パナソニックG1が登場した当初、これほどのハイペースで「ミラーレス一眼」が市場を席捲してしまう事を予想できた方は恐らくは少数派だったのではないでしょうか。登場時その恩恵はボディの小型化やシステム全体での軽量化が中心と捉えられ、その後各メーカーから相次いで投入されたのは、入門機やサブ機といった立ち位置の機種が殆どでしたから無理もない事です。しかし、ミラー駆動の制約を解かれた事による連写スピードの暴力的なまでの向上や高精細動画撮影への対応、ライブビュー技術を駆使した撮影環境の革新、被写体認識技術の向上とそれに伴うAF機能の飛躍的な進化など、現在のデジタル一眼進歩の原動力となった技術の多くが,ミラーレス化を抜きに実現できなかった事は疑う余地も無く、今となってはミラーレス化の必然性を多くの人が感じているに違いありません。

 さて、そういったカメラの革新とも言えるミラーレス化により、光学系にクイックリターンミラーが不要となったことで、撮像素子とマウント面の距離(フランジバック)を大幅に縮める事が可能となりました。これによりレンズ設計の自由度が上がり、描写性能の向上やレンズの小型化といったメリットが生まれた訳ですが、同時にマウントアダプター併用によるメーカーやモデル、製造年代を跨いだカメラ・レンズの相互利用範囲が爆発的に増えるという副産物をもたらしました。レンズを絞り込んだ状態でもEVFや背面液晶などの画面が暗くならない(電気的に増幅していますので、限度はありますが)ミラーレス機では、レンズ側に解放測光の為の連動機構や電気的な通信機構を持たないレンズであっても、実絞りを優先したAEや、マニュアルでのピント調整による撮影が十分可能になります。結果として、シンプルな機構しか持たない旧世代のレンズ(いわゆるオールドレンズなど)が簡単に最新機種で活用できるため、どちらかと言えばマニアックな撮影方法であったマウントアダプターを使った撮影を、オールドレンズブームという追い風もあって、表現手法の一つとして完全に定着させるに至ったのです。

 これらを背景として、近年急速にその存在が認知されるようになってきたのが、「アジアンレンズ」「中華レンズ」などとも言われる、アジア・中国圏のメーカーによって生産・販売されるレンズ群です。レンズ自体にはピントと絞りの調節機構だけが備わっていれば良く、生産コストが嵩む複雑な絞りの連動開閉機構や電子的な通信機構を持たない「シンプル」なレンズであっても、市場で十分に競争力を発揮できる環境が整い、新興メーカーにとっての絶好の商機となったようです。当初は大手ECサイトを中心に、安価でありつつも挑戦的な解放f値と焦点距離を持った実絞りのマニュアルフォーカス単焦点のレンズや、デザイン含めて日本製品をまるパクリした上手に模倣したような製品が注目されていましたが、昨今では性能面でも注目を浴びるような製品や、超広角・超望遠・シフトレンズといったメーカー純正ではなかなか手に届きにくいレンズが比較的安価で入手できる事もあって年々認知度を上げています。

 現行のLeicaMマウントレンズを手本としたことがひしひしと伝わる本レンズも、金属製鏡筒の仕上げや、ピントリング、絞り(完全な等間隔ではありませんが)の操作感も非常にレベルが高く、描写性能にも十分以上に満足が行きます。むしろ画一的に高性能となった現代のレンズと比べ、その独特な「味」は、好印象と受け取れる場面は少なくないのです。他社製ではありますが「周」ブランドによる一連のオールドライカレンズ復刻品に至っては、その外観だけでなく「描写」まで本家と見紛うほどで、もはや技術力に疑問を持つのはナンセンスでしょう。デジタルデバイスにおいてすでに世界屈指の技術を持つ強大な隣国が、本格的にデジタルカメラ市場に参戦する、そんな青写真すら見えて来そうです。我々ユーザーが安価な高性能レンズが手に入る・・・そんな甘い誘惑に惑わされているうちに、とんでもない逆転劇に巻き込まれないよう、自国のカメラメーカにはしっかりと兜の緒を握りつづけていだきたいと思ったりもする今日この頃なのです。

 

 

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なかなかに良い雰囲気の映像となりました。初代Summiluxは、解放付近ですと画面のコントラストはかなり低く時折手を焼きますが、本レンズは解放からかなりしっかりとしたコントラストで描きます。合焦部である看板の注意書きと木洩れ日のアウトフォーカス部分によって立体感が良い感じで際立ちます。

 

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開放f1.4です。ハイライトが滲む傾向はありますが合焦面の解像度(画面中央やや下あたりでしょうか)は高く、画面全体のコントラストは十分に高いのが分かります。四隅の像はやや崩れる感じが見受けられ、後ボケはチリチリとする癖があるようです。

  

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ご覧の様に条件によって周辺の光量がバシッと落ち込みます。高輝度部は若干フレアっぽい印象もありますが、解像度は十分に高いと言えます。昭和の物流を支えた電気機関車の少しくたびれた躯体と、レンズ描写の持つ癖が上手くマッチングしているように感じます。画面全域にわたって光学的性能を高めた国産メーカーの最新レンズではなかなか見られない、いわゆるオールドレンズらしい味わいを楽しめるのではないでしょうか。

 

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開放絞りのふわっとした感じはf2.8あたりからすっかり消滅して、被写界深度の広がりを感じるf5.6あたりでは画面全体からとてもシャープな印象が伝わってきます。四隅で像がやや崩れる感じは僅かに残っていますが、スナップやポートレートでは問題になることは希でしょう。

 

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緻密ですが、カリカリとしない優しい描写です。Summiluxと比べるのであれば、初代よりは近代的な描写、非球面化された最新型と比べれば良い意味での緩い描写という事になるでしょうか。モデルチェンジが早く比較的短命に終わる商品が多いのもアジアンレンズの特徴の一つですから、Summiluxの約1/20の価格で入手できるうちにお迎えできたのはラッキーでした。

 

 

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被写体はデゴイチの相性で有名なSLの「D51」。本来重厚な印象が強い被写体ですが、絞ると繊細な描写を見せるレンズなので、精密模型を見ているようなイメージになりました。なんとなく画面上部のコントラストが低いのは、ハレ切りの手間を怠った私の落ち度が原因です。凝った仕上げの金属製角形フードが純正で付属していますが、21mmレンズ用?と感じるほどの厚さ(薄さ)しか無いのでレンズ保護や装飾面以外でのメリットはあまりなさそうな印象ですね。逆光・迷光が悪さをしそうな場面ではちゃんとハレ切りしたほうがよさそうです。

 

 

Leica Summilux M 35mm f1.4 Part2

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 35mmという焦点距離のレンズを必要とした最初の動機は、描写がどうとか、遠近感がどうとか、被写界深度がどうとかといった創作面に必要な目的ではなく、当時母が営むピアノ教室の発表会で集合写真を撮影する為に、手持ちの50mmでは単純に画角が狭かったという極めて物理的な理由による物でした。しかも、お年玉を携え購入に向かったカメラ店の中古コーナーで、購入候補のAi Nikkor 35mm f2.8の横にほぼ同価格で並んでいたAi Zoom Nikkor 35-70mm f3.3-4.5sに目を奪われ、「半絞りの暗さに目をつむれば、ズームの方が圧倒的に便利じゃん」という、今の自分から思えば全くあり得ない理由で購入に至ってしまったたという、ブログでネタとして消化(昇華)できなければ、墓場まで持って行きたくなる様な正に黒歴史エピソードのオマケ付なのです。やがて、高校の写真部に入って本格的に写真にのめり込むようになり、被写界深度や画角を意識して撮影をするようになると、どちらかと言えばそれらの違いをより強く感じる事が出来る超広角や望遠レンズの方に興味が向かってしまい、自ずとその描写に強烈な個性を持たない35mmレンズとの付き合いは疎遠になってしまいました。

 そして、35mmレンズとの付き合い方を一変させる出来事になるのが、このSummilux 35mmとの邂逅なのです。写真学生の時分、家計を圧迫する感材・薬品・機材費用の工面をするべくアルバイトで通ったカメラ店(現職場ですが・・・)の店頭に、Leica M6とともに陳列されていたこの極めて小さなレンズに目が留まると、数日間のレンタル後にM6と新品のセットで即購入の意思を固めてしまったほどですから、当時のインパクトは相当なものだったのだろうと振り返ります。加えて言うのであれば、1990年頃はLeica製品も今日の様なプレミア価格ではなく、為替相場も空前の円高基調でしたから、並行輸入品であれば、現在のLeica中古相場の半値以下で新品が購入できるアイテムがざらに存在し、学生にとってはこれ以上ないLeica購入の好機だったのでしょう。

 現像の水洗浴から上がった段階で、ネガ上でもはっきりと認識できる、そのあまりに特徴的な描写は、自身のレンズ評価の方向性をも大きく変えて行きました。それまで「良い・悪い」という数値的な指標を中心に評価していたレンズ描写を、「味」や「雰囲気」といったような、言わばリリカルな面での判断に重きを置いて判断するようになっていったのです。もしも、あの日出会ったレンズがSummicronの35mmであったなら、ひょっとして少し違った人生を歩んでいたのかもしれない、そんな気さえもするのです。

 手持ちの資料によれば、本レンズの発表は1960年のフォトキナ(発売は1961年)とあります。以降、細かな仕様変更を受けつつも、光学系はそのままに1990年代まで製造が続けられます。他のライカレンズが光学系を含んだモデルチェンジを繰り返す中、非球面レンズを導入した後継レンズの発売まで長期に渡り製造を続けられたのは、f1.4という明るさの広角レンズの設計の難しさもあったのでしょうが、かえってM3発売当時のライカレンズのエッセンスを新品で味わえるある種孤高の存在ともなりました。デジタルカメラ全盛の時代、コンピューターによるレンズ設計が当たり前となり、物理的な性能向上の為に特殊な光学素材や非球面を利用した光学系を持ったレンズが市場を席捲する中、2022年に復刻盤として本レンズがオリジナルの光学系を採用して突如再販された事は、物理的性能だけがレンズ描写の優劣を決定付けない事を証明していると言えるのかもしれません。(ただし、その価格は学生当時私が購入したレンズ4本ほどに高騰してしまいましたが)

 Leicaのデジタルカメラは、旧来のライカレンズでも最大限その描写特性を損なわない様なセンサーの設計とチューニングを施されていると聞きます。手持ちのα7RⅣでの試写では、デジタルライカでの描写と異なった結果になっているのかもしれませんが、せっかく数十年ぶりに手元に届いたSummilux(勿論借用!)です、「馬には乗って見よ、レンズは撮ってみよ」の言葉に沿って、ほんの少しだけ紹介させていただきたく思うのです。

 

 

 Dsc01496

「白昼夢」そんな言葉もしっくりくるでしょうか。最新のデジタルカメラから得られた画像とは俄かには信じがたい映像となりました。ハイライト部の強烈なハレーション、鋭く落ち込む周辺光量とは裏腹な合焦部の高い先鋭度が本レンズ絞り解放での独特な味を生み出します。安易に「エモい」などと簡単に言って欲しくないのは、このレンズの中古価格が50万円を超えるから・・・・では決してないのです。

  

Dsc01439

まだ体が暑さに慣れていない6月初旬、眩暈を覚えるような暑さで映像が歪んでいるのでしょうか。タイムスリップをして昭和初期のモノクロ映画のシーンを見せられているような、そんな感覚にも陥ります。

 

Dsc01506

日陰に入り、強い光源が無くなると画面は急に落ち着きを見せます。解像感の高い合焦部にまとわりつく微妙なハロが、上質の紗を利用したかの様なソフトな描写を醸し出します。フイルム時代は、クリアーなファインダー像からは想像もできない仕上がりに驚く事も多かったのですが、ミラーレス機はライブビューであらかじめ予想ができるので、新たなSummiluxの活用に期待できそうです。距離計連動との制約もあり、本レンズの最短撮影距離は1mと少々長めですが、ヘリコイド付のマウントアダプターを併用すれば、さらに一歩踏み込んだ撮影も可能です。

 

Dsc01457

たまたま手元に数本の35mmレンズが集ったため、同一箇所でレンズテストまがいの試写をしてみました。本レンズには絞り解放で見せる独特のソフト描写と絞り込んだ際に見せる高精細な描写の二面性が存在します。被写界深度が広がり始めるf5.6辺りから画面全域で解像度はピークに達し、ハレーションの類いも影を潜めます。別のレンズで撮影したのかと見誤るようなクリアで高精細な映像は、最新設計のレンズ達と比較しても、肩を並べるどころか頭一つ抜けていると感じる部分も存在します。画像左上隅に写された電気系統用と思しきボックスの表面は、冷却用と思われるごく小さな穴が無数にあいた鉄板が使用されているのですが、この穴を見事に解像しているのはテストレンズ中、本レンズともう一本だけだった事をお知らせしておきます。


 

 

プロフィール

フォトアルバム

世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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