SONY FE 100mm f2.8 STF GM OSS (SEL100F28GM)
当ブログのタイトルは、戦場カメラマンとして歴史に名を残すロバート・キャパの著書「ちょっとピンぼけ」にあやかっています。この書籍タイトルは、原題「Slightly Out Of Focus」からのとてもセンスが光る和訳なのですが、そう感じる理由として「Out Of Focus」を一言で表現する「ボケ」という日本語の存在がとても大きいのだと感じています。画面全体にピントが合っていると感じられる、いわゆるパンフォーカスで撮影された写真を除けば、写真の中には「ピントの合った部分」と「ピントの合っていない部分」が存在しています。当然の事ながら作者は最も注視して欲しい被写体の部分にピントを合わせるのが一般的であり、ピントが合っていない部分は作画上の脇役であったり、場合によっては全く必要のない部分と考えられることさえあるでしょう。俗に言う「ピンぼけ」が失敗写真の代名詞になっている事からも、写真においてピントが合っている事は一種の大前提と言えなくもないのです。だからこそ、あえて「ピントの合っていない部分」に英語圏には存在しない特定の呼称を与えた、かつての日本人の感覚には尊敬の念さえ抱けるではありませんか。「KOBAN(交番)」や「KARAOKE(カラオケ)」の様に、それまで海外にはなかった日本独自の文化・風習が受け入れられる際、いわば輸出された日本語としてこれらの言葉が定着していった訳ですが、「ピントの合っていない部分」を表す言葉が、現在英語圏で「BOCHE」と日本語の発音そのままに表記される事が、なんだか誇らしいではありませんか。
さて、レンズに話を移しましょう。写真レンズに求められる性能を考えた時、個人的な感覚や作風などにも影響されますから、答えを一つにまとめる事は出来ないのだろうとは思います。しかし、「ピントを合わせた部分がしっかりと結像・解像する」という点に関しては、議論以前にレンズという商品の性格上当たり前の事だと考えても良いでしょう。だからこそ、本レンズ「STF」のようにピントの合っていいない部分、すなわち「ボケ」にスポットを当てて設計をされたレンズが存在する意義とは何か、興味が湧いてくるではないですか。非合焦部への明確な名称「ボケ」を有する言語を用い、さらにその「味」にまで言及する「ボケフェチ」とも言える日本民族が拘った一本、その実力とはいったいどんな物なのでしょう。
「STF(Smooth Trans Focus)」と銘打たれた本レンズは、アポダイゼーションと呼ばれる特殊な光学系を採用しています。ものすごくざっくり言えば、周辺に向かって濃度を増すNDフィルターの様な物なのですが、この効果でボケ像に発生するエッジを弱め、俗に言う「硬いボケ」や「二線ボケ」などを抑制する効果が期待できるのです。同様の構造・発想は富士フイルムのXF56mm f1.2 R APD(アポダイゼーションの略)やCanonのRF85mm f1.2L USM DSにも存在しますが、両レンズ共にその効果を持たせないノーマルなレンズも併売しています(した)。描写特性の違いを選択肢としてユーザーに与えるという面もありますが、前述した通りNDフィルター的効果の発生で、センサー面に到達する光量が落ちてしまうと言うデメリットが存在する事も理由にはなるでしょう。実際本レンズも解放F値は2.8としていますが、実際にセンサーへ到達する光量を表記するT値5.6を併記しています。単純計算で絞り解放の状態でもシャッタースピードにして2段分の光量ロスが発生している事になりますが、その辺りはレンズ内手振れ補正に自信もあるのか、SONYからはノーマルバージョンのレンズが発売されていないのが興味深いところです。
別のアプローチでは、過去にNikonからも105mmと135mmに「DC(Defocus-image Control)機構」を持たせた2種のレンズが存在していました。この機構はレンズに発生する収差(主に球面収差)を搭載されたDCリングの操作で意図的にコントロールし、ボケ像の柔らかさを変化させるという手法で、アポダイゼーション光学系のような減光は発生せず、調整の量によってはソフトレンズ的な応用もできる半面、効果は前ボケ・後ボケどちらかを選択する必要(後ボケを柔らかくすると逆に前ボケは硬くうるさく感じ、逆もまた然り)があり、さらに絞りの変化に応じたDCリングの操作が都度必要になるなど、使用には若干の慣れと工夫が不可欠なものでした。
いずれにしましても、フルサイズ換算での85mm~135mm近辺の焦点距離で尚且つ明るい単焦点レンズへの実装が殆どな「ボケ」を意識したこれらの機構や構造ですが、やはりそれらのレンズはポートレート撮影などでの利用頻度が高く、メインとなる被写体を浮かび上がらせるためのより魅惑的な「ボケ」を演出できるレンズが求められているという事なのでしょう。物語の行間であったり、役者の三枚目、あるいは酒の肴といった様に、「ボケ」も本来は主要被写体を引き立てる役回りでありますが、時に主役以上に重要な立ち回りを見せる名脇役のごとく、上手く使いこなせばきっと作品の深みも増してくれるのでしょう。
これは、本当に余談に過ぎない事なのですが、先ごろ映像に関わる若い世代の方たちから「ボケ感」という言葉を目や耳にするようになりました。恐らくはぼけ像の様子(いわゆるぼけ味)やぼけの大きさの程度を指した言葉なのだと想像はできるのですが、個人的な感覚としては、「ボケ」という言葉には「ピントが合っていない感じ」のように「感」がすでに内包されているイメージがあるので、結果としては「ボケ感」という言葉にはどこか「頭痛が痛い」同様つまりは「ピントが合っていない感じの感じ」の様に素直に呑み込めない違和感が伴ってしまうのです。こんなことを公言すると「老害認定」を受けてしまいそうな恐怖もあるのですが、お客様からスマホの画像を見せられて、「こんな「ボケ感」が出せる単焦点のオールドレンズってありますかぁ?」なんて聞かれた時の、あの肩甲骨と背骨の間の筋肉がぞわぞわっとする感覚がどうあっても馴染めないのも事実なのです。
並んだ中央の駐禁の看板にフォーカス。合焦部から前後に綺麗に広がる「ボケ空間」を見る事が出来ます。アウトフォーカス部にある手前の看板の文字や背景の電信柱など、レンズによっては悪目立ちすることもあるハイライトを含んだボケ像のエッジが、どちらもとても緩やかに描写されています。
こういった細い枝葉なども、二線ボケなどの影響で遠近が分からなくなる描写をしてしまいがちな被写体ですが、STFの効果でご覧の通り。安心して作画に取り入れることができます。
水面の蓮の葉と写り込んだ薔薇の枝。水底に沈んだ枯れ葉もかすかに見えるでしょうか。非合焦部が非常に穏やかな反面、合焦部の先鋭な描写はさすがSONYレンズ最高峰の証GMの銘を冠するだけの事はあります。本レンズの祖先はMINOLTA時代のAF 135mm f2.8 STFと想像できますが、Eマウント化にあたって焦点距離を100mmとしたのはFE 135mm f1.8GMとのバッティングを避けるためなのでしょうか?
口径食の影響が抑えられ画面周辺まで均質なボケ像を描く事も本レンズの特徴。もともとボケのエッジが綺麗に滲んでいる為に目立ちにくいのですが、水面の反射がボケた玉ボケの像も、周辺まで綺麗な円形を保っています。かなりの逆光条件でしたが、懐の深い大型レンズフードがしっかりと仕事をしてくれました。レンズ内の反射防止性能が高いのも言うまでもありません。
テスト撮影を行ったのは丁度紅葉の入り頃でした。背景との距離はそこそこありますが、100mmにしてはボケ方が大きいと感じるのは、アポダイゼーションの効果でぼけの輪郭部がきれいに滲むからなのでしょう。200mm程度の望遠レンズを使った描写に近い印象にも感じます。
ボケにだけ拘ったとするなら「GM」レンズとはならなかったでしょう。ちょっと絞り込んで庭園の片隅にまとめられた剪定用具をスナップ。合焦部の質感がすさまじく、拡大画像を見ると織物の繊維が一本ずつ確認できる程です。高い解像力と美しいボケの共存、まさに理想のレンズの形その一つなのでしょう。
専門のマクロレンズ同等とはいきませんが、本レンズには切替によって、最短撮影距離を57cm(撮影倍率0.25倍)にするマクロ機構が内蔵されており、人物撮影だけでなくこういった植物などの撮影で重宝します。本来であればシームレスなのが一番ですが、恐らく画質を最善に保つための手段なのでしょう。MINOLTA時代の100mmマクロもボケ味には定評がありますが、ポートレートや遠景での利用が多ければ、STF一択で良いと思います。(資金があれば・・・)
撮影前日の大雨が上がり霧が立ち込めた庭園。濃霧+アポダイゼーションの合わせ技なのでしょうか、とても幻想的な雰囲気に仕上がりました。所在なく溶けてしまうタイプのボケ像ではないので、木道の存在感がなんともリアルで良い塩梅に。
ポートレートなどでは、立体感を表現するために多用する半逆光のシチュエーション。ハイライト部分にのみ、わずかに紗をかけたかのような絶妙なボケ像と、合焦部のリアルな彫像の質感がその場の空気感を見事に演出。本レンズならではの絵作りと言えるでしょう。背景には印刷された段ボールが写りこんでおり、レンズによっては煩わしく見えてくる部分ですが、全く気になりませんね。
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