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M.ZUIKO DIGITAL ED 75mm F1.8

 

 35mmフルサイズ換算で150mmの画角を持つ、異色の中望遠大口径レンズ。300mmの半分と考えればキリの良い数字ではありますが、実際は135mmと200mmという望遠レンズの代表選手に挟まれ、存在感の薄さは否めません。記憶を辿ればフイルム時代の純正ズームレンズや、現行品でも社外品に一部でその存在を確認できますが、単焦点レンズともなると、僅か数本が頭に浮かぶ程度ですから、その画角に馴染みがあるのは少数派なのかもしれません。

 実は私自身その少数派の一人で、生まれて初めて手にした望遠レンズ(ホントは父の所有物)が75-150mmf3.5というニコンのシリーズE(Nikkorという名称を持たない不遇なレンズです・・・)に属するレンズでした。鉄道写真を主に撮影していた当時、連れ立って撮影に出掛ける友人のレンズの望遠端が250mmだったので、子供ながらに、いつも劣等感のようなものにさいなまれていたのを記憶していますが、とにかく自分にとっての望遠レンズは長い間150mmだったのです。

 そして、写真部に在籍した高校時代、その描写力の洗礼を受けたのが大口径の中望遠単焦点レンズでした。以来、単焦点レンズにのめり込んだ自分ですから、この手のレンズには目がありません。まして、これまで数本試したオリンパスのマイクロフォーサーズ用レンズの、確かな性能を実感していた自分にとっては、試さない訳にはいかないのです。格別な思い入れこそないのですが、幼少期から望遠レンズとして馴染んでいた150mmの画角での単焦点。鉄道やポートレートといった被写体との縁は薄くなった昨今ですが、自ずと期待で胸が躍ります。

 解放f1.8という、焦点距離からすれば非常に明るいレンズとなり、マイクロフォーサーズ用の単焦点レンズとしては少し大柄に感じるかもしれません。PENシリーズやパナソニックのGXといった小型のボディーよりは、グリップの大きなE-M1系やパナソニックGH系やG9がバランスが良いようです。金属製の質感のよい鏡筒と、大きな口径を持った前玉を見ると、いかにも「写る」レンズの風格を漂わせます。そしてその雰囲気に違わず、非常に質の高い映像を提供してくれます。合焦面のシャープさはもとより、それを引き立てる前後のボケは非常に癖がなく、ヌケの良いクリアな画像は良い意味での緊張感を与えてくれます。画面周辺までスキのない描写は、オリンパスというメーカーに対し、個人的に感じている「生真面目さ」を体現してるかのようです。専用の大型金属フードの質感も高く、割高感はありますが一緒に手に入れておきたいところです。鏡筒もブラックとシルバー、二色が用意される贅沢。ボディーとのマッチングで、是非お好みをチョイスしてみてください。

 

 

P1000529

非常に精緻な描写を見せる合焦部と大きなボケが対照的な「大口径中望遠レンズ」の特徴が良く表れた一枚。滲んだり、溶けたりといった情緒的なボケにならないのが、本レンズ最大の特徴でしょうか。本当に「真面目」な一本です。クリアで色ノリがよく、とても現代的な写りに好感がもてます。

 

P1044030

しっかりとしたボケ像を作ってくれるので、こういった被写体を写すと素性の良さが感じられます。「味」などと曖昧な表現を受け付けない、これが「ボケ」の真のあり方なのだと、設計者の論文を読まされているような気分になります。

 

P1044035

解放から相当にシャープなレンズですが、被写界深度を稼ぐ為少しだけ絞ります。ピント面は非常に線が細く、素材の違う金属それぞれの質感を非常に上手く描き分けてくれます。中望遠レンズはポートレートレンズの代表とされていますが、適度に緩和されたパースがこんな被写体にも非常にマッチします。

 

P1044032

圧縮された遠近感と特筆するべき素直なボケ。画角故に万能選手とはいきませんが、ズーム一本で間に合わせることが多い望遠撮影において、存在感の非常に大きいレンズです。料理人は種類の違う何本もの包丁を使い分けると言いますが、特定の表現の為に拘りの「一本」用意する、そんな撮影者になりたいものです。

 

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世界的に有名な写真家「ロバート・キャパ」の著書「ちょっとピンボケ」にあやかり、ちょっとどころか随分ピント外れな人生を送る不惑の田舎人「えるまりぃと」が綴る雑記帳。中の人は大学まで行って学んだ「銀塩写真」が風前の灯になりつつある現在、それでも学んだことを生かしつつカメラ屋勤務中。

The PLAN of plant

  • #12
     文化や人、またその生き様などが一つ所にしっかりと定着する様を表す「根を下ろす」という言葉があるように、彼らのほとんどは、一度根を張った場所から自らの力で移動することがないことを我々は知っています。      動物の様により良い環境を求めて移動したり、外敵を大声で威嚇したり、様々な災害から走って逃げたりすることももちろんありません。我々の勝手な視点で考えると、それは生命の基本原則である「保身」や「種の存続」にとってずいぶんと不利な立場に置かれているかのように思えます。しかし彼らは黙って弱い立場に置かれているだけなのでしょうか?それならばなぜ、簡単に滅んでしまわないのでしょうか?  お恥ずかしい話ですが、私はここに紹介する彼らの「名前」をほとんど知りませんし、興味すらないというのが本音なのです。ところが、彼らの佇まいから「可憐さ」「逞しさ」「儚さ」「不気味さ」「美しさ」「狡猾さ」そして時には「美味しそう」などといった様々な感情を受け取ったとき、レンズを向けずにはいられないのです。     思い返しても植物を撮影しようなどと、意気込んでカメラを持ち出した事はほとんどないはずの私ですが、手元には、いつしか膨大な数の彼らの記録が残されています。ひょっとしたら、彼らの姿を記録する行為が、突き詰めれば彼らに対して何らかの感情を抱いてしまう事そのものが、最初から彼らの「計画」だったのかもしれません。                                 幸いここに、私が記録した彼らの「計画」の一端を展示させていただく機会を得ました。しばし足を留めてくださいましたら、今度会ったとき彼らに自慢の一つもしてやろう・・・そんなふうにも思うのです。           2019.11.1

The PLAN of plant 2nd Chapter

  • #024
     名も知らぬ彼らの「計画」を始めて展示させていただいてから、丁度一年が経ちました。この一年は私だけではなく、とても沢山の方が、それぞれの「計画」の変更を余儀なくされた、もしくは断念せざるを得ない、そんな厳しい選択を迫られた一年であったかと想像します。しかし、そんな中でさえ目にする彼らの「計画」は、やはり美しく、力強く、健気で、不変的でした。そして不思議とその立ち居振る舞いに触れる度に、記録者として再びカメラを握る力が湧いてくるのです。  今回の展示も、過去撮りためた記録と、この一年新たに追加した記録とを合わせて12点を選び出しました。彼らにすれば、何を生意気な・・・と鼻(あるかどうかは存じません)で笑われてしまうかもしれませんが、その「計画」に触れ、何かを感じて持ち帰って頂ければ、記録者としてこの上ない喜びとなりましょう。  幸いなことに、こうして再び彼らの記録を展示する機会をいただきました。マスク姿だったにもかかわらず、変わらず私を迎えてくれた彼らと、素晴らしい展示場所を提供して下さった東和銀行様、なによりしばし足を留めて下さった皆様方に心より感謝を申し上げたいと思います。 2020.11.2   

The PLAN of plant 2.5th Chapter

  • #027
     植物たちの姿を彼らの「計画」として記録してきた私の作品展も、驚くことに3回目を迎える事ができました。高校時代初めて黒白写真に触れ、使用するフイルムや印画紙、薬品の種類や温度管理、そして様々な技法によってその仕上がりをコントロールできる黒白写真の面白さに、すっかり憑りつかれてしまいました。現在、フイルムからデジタルへと写真を取り巻く環境が大きく変貌し、必要とされる知識や機材も随分と変化をしましたが、これまでの展示でモノクロームの作品を何の意識もなく選んでいたのは、私自身の黒白写真への情熱に、少しの変化も無かったからではないかと思っています。  しかし、季節の移ろいに伴って変化する葉の緑、宝石箱のように様々な色彩を持った花弁、燃え上がるような紅葉の朱等々、彼らが見せる色とりどりの姿もまた、その「計画」を記録する上で決して無視できない事柄なのです。展示にあたり2.5章という半端な副題を付けたのは、これまでの黒白写真から一変して、カラー写真を展示する事への彼らに対するちょっとした言い訳なのかもしれません。  「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」これはキリスト教の聖書の有名な一節です。とても有名な聖句ですので、聖書を読んだ事の無い方でも、どこかで目にしたことがあるかも知れません。美しく装った彼らの「計画」に、しばし目を留めていただけたなら、これに勝る喜びはありません ※聖書の箇所:マタイの福音書 6章30節【新改訳2017】 2021年11月2日

hana*chrome

  • #012
     「モノクロ映画」・「モノクロテレビ」といった言葉でおなじみの「モノクロ」は、元々は「モノクローム」という言葉の省略形です。単一のという意味の「モノ」と、色彩と言う意味の「クロモス」からなるギリシャ語が語源で、美術・芸術の世界では、青一色やセピア一色など一つの色で表現された作品の事を指して使われますが、「モノクロ」=「白黒」とイメージする事が多いかと思います。日本語で「黒」は「クロ」と発音しますから、事実を知る以前の私などは「モノ黒」だと勘違いをしていたほどです。  さて、私たちは植物の名前を聞いた時、その植物のどの部分を思い浮かべるでしょうか。「欅(けやき)」や「松」の様な樹木の場合は、立派な幹や特徴的な葉の姿を、また「りんご」や「トマト」とくれば、美味しくいただく実の部分を想像することが多いかと思います。では同じように「バラ」や「桜」、「チューリップ」などの名前を耳にした時はどうでしょうか。おそらくほとんどの方がその「花」の姿を思い起こすことと思います。 「花」は植物にとって、種を繋ぎ増やすためにその形、大きさ、色などを大きく変化させる、彼らにとっての特別な瞬間なのですから、「花」がその種を象徴する姿として記憶に留められるのは、とても自然な事なのでしょう。そして、私たちが嬉しさや喜びを伝える時や、人生の節目の象徴、時にはお別れの標として「花」に想いを寄せ、その姿に魅了される事は、綿密に計画された彼らの「PLAN(計画)」なのだと言えるのかもしれません。  3年間に渡り「The PLAN of Plant」として、植物の様々な計画を展示して参りましたが、今年は「hana*chrome」と題して「花」にスポットを当て、その記録を展示させていただきました。もしかしたら「花」の記録にはそぐわない、形と光の濃淡だけで表現された「モノクローム」の世界。ご覧になる皆様それぞれの想い出の色「hana*chrome」をつけてお楽しみいただけたのなら、記録者にとってこの上ない喜びとなりましょう。                              2022.11.1

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